Archive for the ‘メッセージ’ Category
祈り会メッセージ 6月27日
天は主のもの、地は人への賜物。(詩編115:116)
詩編115編の後半は神さまを畏れる者についての祝福を語っています。ですが今回は116節の聖書の言葉に眼をとめてみたいと思います。「天は主のもの、地は人への賜物」イスラエルの人びとがバビロン捕囚から帰還し、再び自分たちの地で神さまを礼拝することの喜びと感謝をあらわしています。再生の喜びです。
自分たちの地で神さまを礼拝し、愛する人、家族とともに日々を過ごすことの幸い、なんという喜びでしょうか。感謝でしょうか。先週、私は八戸にある南部山公園に行きました。そこには公園があり、スポーツセンターがあり、スポーツを楽しんでいる人、家族で楽しんでいる人がいました。
わたしはなんともいえない平安と喜びに満たされました。地が与えられていることの喜び、幸い、けれどもわたしたちはその恵みを当たり前のこととして、神さまから与えられている地を我がものとして乱用しているのではないでしょうか。そうなのです。今、原発など様々な問題があります。この根本の解決は神さまのまえに謙遜にひざまずき地は人へ賜物という神さまのメッセージに耳を傾けることから始まるのです。
6月20日祈り会メッセージ 詩編115編より 嘲られても
私たちの日常はいたるところに偏見と差別に満ちています。日本の社会ではある宗教を信じているというだけで好奇心のまなざしで見られることはないだろうか?イスラエルの人たちも見えない神さまを礼拝していることで諸国からあざけりを受けたということが115編2節で記されています。
「なにゆえ、もろもろの国民は言うのでしょう。『彼らの神はどこにいるのか』と。」(2節)人々はイスラエルに向けて一番痛いところをつきました。「お前の信じている神はどこにいるのか?見えないじゃないか」私たちも日常において一番つかれたくないところをつかれます。まわりの人たちは自分以上に欠点や弱いところを知ってついていくのです。そのときどうすればよいのでしょうか?本当につらいですね。
神さまは詩編115編をとおして答えて下さいます。戻るべきところに戻ることです。私たちの弱いところや欠点あるいは反論しても仕方のないところを右往左往するのでなく、自分を生かして下さる、輝かせて下さる方をイスラエルの人たちは見つめ、そこに戻りました。「われらの神は天にいらせられる」(3節)イスラエルの人たちが戻るべきところに戻ったときに反対に嘲る人々の本当の姿が見えてきたのです。あなたは嘲られる時、一番つかれたくない欠点や弱いところをつかれたときどこに戻りますか?どう対処するでしょうか?イエス・キリストを見いだして下さい。あなたがイエス・キリストに出会うことを祈ります。
祈り会メッセージ 詩篇111編より 『神さまの偉大な御業』
「主の御業は大きく、それを愛する人は皆、それを尋ね求める。」詩篇111:2
「神さまの御業」なんて言葉を聞くといったい何を言っているのかと思われるでしょう。これは神さまが私たちの世界になされる働きと言っていいかもしれません。
神さまの大きい業(働き)とは何でしょうか?私たちの住んでいるこの世界を造られたこと。自然の営みを支えておられる聖書にはそのような神さまの大きな業(働き)が語られています。しかし、神さまの大きな業(働き)の一番は何かと言うと私たち人間を創造されたことです。エペソ2:11では「神さまは前もって準備をされた、良い業を行うために」神さまは私たちに新しい人生を用意してくださいます。
私たちの人生は後悔と失敗だらけです。過去における後悔や失敗で前に進めない。そんなことはないでしょうか?神さまの大きな御業はそのような人生を新しい創造で新しい人生に変えるのです。
5月20日主日礼拝メッセージ 喜びを運んで来る方 マルコ11:1~10
今日の聖書はイエス・キリストがろばに乗ってエルサレムに入城する場面です。エルサレムの人々は熱狂的にイエス様を迎えます。
私たちはヒーローやアイドルに熱狂します。今年はオリンピックがあります。活躍する選手たちに人々は熱狂するでしょう。しかし、神さまは熱狂するものではありません。礼拝するお方です。従うお方です。ですが人々が神さまに祈るときの心の動機は自分のために熱狂させてほしいという思いが見え隠れしていないでしょうか。
イスラエルの人々は、自分たちのためにイエス様が自分たちを苦しめている敵ローマから解放してくださるお方だととんでもない勘違いをしていたのです。私たちは自分を基準として物事を見ます。自分を苦しめるものであるならすべてが敵なのです。しかし神さまから見るならすべての人間が等しく神さまの敵です。なぜならすべての人を愛する神さまにとって自分がすべてで他のものは敵と見る私たちはこの神さまがつくられた愛の世界を破壊する存在でしかないからです。
しかし、神さまは敵である私たちを愛してくださいました。神さまのひとり子であるイエス・キリストをとおして敵である私たちを敵ではなく子として受け入れてくださったのです。ろばに乗ったイエス様がその何よりの証でした。神さまは平和の使者としてイエス・キリストを私たちのもとに贈って下さったのです。しかし、自分こそ世界の中心であると固く信じて疑わないイスラエルの人たちはわかりませんでした。私たちも同じです。神さまに祈りましょう。自分中心から自由にされ神さまを愛し、自分の敵だと思う人たちを愛する喜びをイエス様に頂くことができるようにと。
主日礼拝メッセージ 『私の人生にあなたの御業を』 マルコによる福音書から
「イエスは彼にむかって言われた、『先生、見えるようになることです』。そこでイエスは言われた、『行け、あなたの信仰があなたを救った』。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った」(マルコによる福音書10:51・52)
私たちは神さまに何を求めて来るのでしょうか?人生に幸福を、今の困難な事態から救って下さい。と本日の聖書ではまったく希望のない人がイエス様によって救われた出来事が記されています。彼の信仰から学びたいのです。彼はイエス様に「見えるようになりたい」とただ一言だけ願ったのです。
この言葉は何を意味しているでしょうか?彼は自分に神さまの御業があらわされることを求めたのです。たいてい人は自分ではなく、他人や状況を変えて下さい。あるいはここから逃げ出すことができるように、と祈り求めるのです。何が悪いのかと反感を持つ人もいるでしょう。しかしよく考えて下さい。あなたの人生に神さまの御業がないとしたらあなたは困難なことが起きる度に祈るのですか?その祈りは喜びの祈りとなるでしょうか。そうではなくて「ああ、また問題があるから神さまこうして下さい」という人生を過ごすのでしょうか。神さまはそのような人生をあなたに与えたのではないのです。いかなること起きても神さまがいてあなたを支えられる人生を与えたのです。彼はそういう人生をイエス・キリストに求めました。神さまはイエス・キリストと共に歩むことのできるわくわくした人生をあなたに与えられるのです。
祈祷会メッセージ110編より 『あなたはイエス・キリストを知っているか』
あなたはイエス・キリストを知っているでしょうか。旧約聖書の詩篇110編にイエス・キリストについて預言された言葉があります。預言という言葉についてどういう印象を持つでしょうか?いつ・どこで・何が起こるかを当てる。それが聖書の語る預言ではありません。預言は神さまがわたしたち人間に対するご計画です。神さまがわたしたちにどのようなご計画を持っているかを語られたのが預言です。 神さまはイエス・キリストをとおしてどのようなご計画を持っているのでしょうか。
第一に私たちの人生に勝利を与える方、第二に神さまと私たちの間に平和を与えて下さる方、第三に私たちの将来に希望を与えるかたです。
特に第二の神さまと私たちの間に平和を与えて下る方に注目したいと思います。詩篇110:4で神さまはイエス・キリストを「とこしえの祭司」であると宣言されました。これは神さまとわたしたちの間にとこしえの平和をもたらすと宣言しているのです。私たちは調子のいいとき神さまに祈ることはできます。しかし、人生に苦難がおとずれたとき、祈る状況ではないとき、神さまを忘れてしまうほど追いやられるとき、このような時こそイエス・キリストが私たちを神さまへと引き上げて下さるのです。 忘れてはいけません。私たちが神さまのもとに行けるのではありません。その証拠に私たちがどんなときも神さまとつながっている確信はないですね。イエス・キリストが私たちを神さまにつなげるのです。イエス様はそのようなお方なのです。
祈祷会 詩篇109:26~31より 覚悟を決めなさい。
「彼らは呪いますがあなたは祝福してくださいます。 彼らは反逆し、恥に落とされますがあなたの僕は喜び祝います」 詩篇109:28
・神さまを信じる者であっても人から中傷を受けることは避けられません。どんなに正しいと言われている人であっても 周りの人たちは絶対に非難します。人を非難することが人間の本質だからです。ですから、「どうしてあの人はあん なふうに言うのだろう」と考えますが、わからないで何も考えないで言っているのです。怖いですね。反対に人を中傷 する罪を自分が持っていることを自覚しなければなりません。
・人から中傷されたときどうすればよいのでしょうか?真っ向から対決して完膚無きまでに叩きのめしましょうか。そんな ことでは何の解決にもなりません。叩き合いの応酬になるだけです。ダビデは神さまに祈りもとめました。人の呪いを 祝福に変えることのできる唯一の御方に目を注ぎました。神さまは人の間にある憎しみ、呪いを祝福に変えられま す。イエス・キリストの十字架は私たちの間にある敵意や憎しみを愛に変えて下さるのです。主イエス・キリストに私 たちの呪い、敵意を持って行きましょう。
5月6日主日礼拝メッセージ 「偉くなることから自由になる」
「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」 (マルコ10:43)
・イエス様は言われます。偉くなりたいなら仕える者になりなさい。あからさまに上に立ちたいとは言わないけど、人から指図はされたくないと思うのではないでしょうか。一番下っ端になれば嫌なことを引き受けなければいなけい。貧乏くじを多く引くことになる。
・その在り方が間違っているとイエス様は言われるのです。そういう心を持った私たちが上に立てば人を傷つけるのは当然のことです。傷つけていることも気づかないのではないでしょうか?イエス様は私たちが上に立ちたい本当の理由を知っています。自分が人から踏みつけにされ尊厳を傷つけられることを恐れていることを、
・イエス様は言われるのです。神さまの国ではそうではない。誰もが神さまによって愛され、一人ひとりが大切にされるのです。私たちひとり一人にイエス様が仕えて下さいます。踏みつけられることは大変痛いことですが、私たちに向けられているイエス様の愛を信じて行きたいと思うのです。
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