Archive for the ‘祈祷会’ Category
1月3日 泉のほとり
「ただの嘆きの言葉ではなく」
「イエスは答えて言われた、『ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。』」 (ルカ9章41節)
新しい年が始まりました。今年は正月休みも例年に比べれば短く物足りなく思った方もいるのではないでしょうか。イエス様は山でモーセとエリヤとで、エルサレムでのこれからの神のご計画について話しをされていました。
山を降りたイエス様を待っていたのは罪に満ちた現実の世界でした。一人息子が悪霊に取りつかれて苦しみの中にある。けれども弟子たちはこの親子を助けることができない。これがイエス様の戻ってきた世界の現実でした。
「なんという不信仰な、曲がった時代であろう」イエス様の言葉にはこの世に対する嘆きと憤りを見ることができます。それはこの世の罪という現実をまえにして私たちのように無力を嘆くのでなく、人間を苦しめる罪に対する怒りとそこからの贖いを決意する言葉だったのではないでしょうか。イエス様は決意を新たにしてエルサレムへの道を進んでいくのです。 牧師 林健一
11月29日 泉のほとり
世界祈祷週間をおぼえて -神の恵みに挑戦する-
「わたしたちは神の同労者である。」 (コリント人への第一の手紙3・9)
今年も世界祈祷週間のこの時期、世界に視点を向けてさまざまな問題を考え、祈る機会を与えられる恵みに感謝いたします。世界祈祷週間の始まりは1873年、米国の若き女性宣教師ロティ・ムーンが中国伝道のために身を捧げ、その支援として米国南部の女性たちが、ロティ・ムーンクリスマス献金を創ったことによります。日本では1931年、困難な生活の中、世界伝道の信仰に目覚めたバプテストの女性たちによって世界祈祷週間がはじまり、現在に受け継がれています。
その頃の日本の国はいまだ貧しく、女性の地位も非常に低かったのですが、当時のバプテストの婦人たちは、その現実に埋没することなく、世界伝道の幻を抱きつつその活動を受け継ぎ、今日まで続けてきました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という主イエスのみ言に忠実であろうとしたことに他なりません。最初の献金は、母子家庭のための授産場の支援に捧げられましたが、今や日本を含め、タイ、シンガポール、インド、ルワンダなど各地へと、その活動は文字通り世界へ拡がっています。
牧師 林健一
11月22日 泉のほとり
ペテロのメシア告白
彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。(ルカ9:20)
これはあまりにも有名なペテロのメシア告白です。イエス様は弟子たちに「わたしをだれと言うか」「何者だと思うか」と質問されたのです。当時、人々はイエス様のことを「バプテスマのヨハネ、エリヤ、預言者のひとりが復活したのだ」と言っていたのです。
人々はイエス様のことを「メシアの前に来て道備えをする人」「メシアが来られる準備をする人」としての理解でした。イエス様が人々のまえで福音を宣言し、力ある御業を行なったにもかかわらずメシアだとわからなかったのです。それだけ人々の心の目は覆われていて神様の約束してくださったメシアを見ることができませんでした。
私たちの心の目も覆われていて神様を見ることができません。罪人であるということはそういうことなのです。神様を知ることはできないのです。では、どうすれば神様の約束されたメシアを見ることができるでしょうか。知ることができるでしょうか。
イエス様はひとり祈っておられました。弟子たちに質問するまえに祈っておられたのです。弟子たちの心の目が開かれるように祈られました。イエス様の祈りゆえにペテロはイエス様が「神からのメシア」であると告白できたのです。私たちが告白する背後にイエス様の切なる祈りがあるのです。これもまた神様の力ある御業、福音(喜びの出来事)なのです。 牧師 林 健一
11月15日 泉のほとり
主にある交わりと協力
「あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。」
(ローマ16:16)
先週天城山荘にて3日間行われた第61回連盟総会も祈りのうちにすべての議事が承認されました。反省とともに来年度に向けて新たな活動がスタートされました。
今年度の総会では豊前キリスト教会(大分県豊前市)が新たに連盟に加盟しました。新しい歩みの上に主の祝福を祈りたいと思います。また、2つの教会が連盟を脱退したことが報告されました。
連盟総会は話し合いの場はもちろんのこと全国から集まった教会・伝道所の交わりの場でもあります。互いの近況を分かち合い祈る場でもあります。
私もこの3日間で多くの人たちから声をかけられました。震災支援のこと、鮫教会の皆さんのこと「祈っています」「おぼえています」ぜひ、皆さんにもこの主にある交わりを体験してほしいのです。
現代は孤独の時代です。孤独はあらゆる暗闇をうみます。私たちは主にある交わりをとおして愛し愛されることを知り孤独から救われることを知らなければなりません。 牧師 林健一
11月8日 泉のほとり
いったい、だれなのだろう
「そこでヘロデが言った、「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人は、いったい、だれなのだろう」。そしてイエスに会ってみようと思っていた。」(ルカ9:9)
私たちは自分の犯した過ちに縛られます。誰が見ていなくても、法的に裁かれなかったとしても私自身が私を裁くのです。神様が人間の心に良心を植え付けてくださったのだと。同時に心の奥底に人間は神様によって裁かれるのだと。いう真理を私たちはわかっているのではなないでしょうか。それゆえに恐れるのです。
ヘロデは罪を厳しく指摘したバプテスマのヨハネを殺害しました。彼はイエス様の噂を聞き不安になり「いったい、だれなのだろう」ともしやヨハネが生き返ったのでは?と恐れるのです。
しかし、真に恐れなければならないことを彼は恐れませんでした。神様の裁きです。私たちは人の呪いや復讐を恐れますが同じ人間です。愚かにもおびえ恐れるのです。
ですが神様の裁きほど厳粛で恐ろしいものはありません。私たちの犯した罪を徹底的に裁かれるのです。主イエス・キリストの贖いがなければ赦される罪はない。私たちの罪を担われた十字架の贖いに感謝します。 牧師 林健一
11月1日 泉のほとり
神様からのチャレンジをいただいて
「だから、わたしは兄弟たちを促して、あなたがたの所へ先に行かせ、以前あなたがたが約束していた贈り物の準備をさせておくことが必要だと思った。それをしぶりながらではなく、心をこめて用意していてほしい。」(コリント第二9:5)
本日、牧師は南光台キリスト教会に説教奉仕に出かけます。この奉仕は牧師だけのものではありません。鮫教会の奉仕です。御苦労さまでなく共に主に仕えることができる喜びを味わいたいものです。
牧師も鮫教会も捧げていくなかで普段以上に素晴らしい神様からの恵みをいただけるのだとイエス様は私たちにチャレンジを与えておられるのです。いつも以上に祈って下さい。捧げて下さい。主にある労苦は無駄になることはありません。教会に豊かな祝福をもたらすのです。福音に仕えていくこと以上の喜びはありません。
私たちの教会は全国の主ある教会、兄弟姉妹たちからあふれるほどの愛をいただいていることを忘れてはなりません。教会は自力で立つところではありません。支えられるところなのです。主によって、主にある兄弟姉妹にあって支えられていることを感謝するのです。
牧師 林健一
10月25日 泉のほとり
無知でいてもらいたくない
「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。」(テサロニケ一4:13)
パウロはテサロニケ人への第一の手紙に4、5章において召された人々、復活について語ります。兄弟たちよ、すでに眠っている人々について無知でいてもらいたくない。彼らは主イエス・キリストが再臨されるときに、主イエス・キリストと同じように死から復活するのだ。
主イエス・キリストの復活を信じている者、主によって召された者にとって死は終わりではない。愛する人との間を引き裂くことはできない。と語っているのです。
死んでしまったらもうおしまいだ。と望みを持たない者でなく主イエス・キリストの復活を仰ぎみて今を生きなさいと言われます。この世だけに望みを置く人生なら絶望に打ちひしがれます。この世は不平等、矛盾に満ちた世界です。誰もが満たされる人生などおくれません。
しかし、主イエス・キリストの復活に望みを置くなら絶望から希望へと変えられていくのです。 牧師 林健一
10月18日 泉のほとり
いたる所で福音を宣べ伝えた
「それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやし力と権威をお授けになった。」(ルカ9:1)
イエス様は十二弟子たちを呼び集めて、ご自分の権威をお授けになりました。それは彼らが出ていって福音を宣べ伝え、人々をいやすためでした。神の国を宣べ伝え、神の国は近づいたことを伝えていくためでした。
神様は福音を知らせていく方法として私たちを用いられます。神様ならば一度にすべての人たちに福音を知らせることがお出来になるのではないかと思うのに、あえて不完全な私たちを用いられるのです。
それは福音を伝える私たちにも福音の素晴らしさと恵みを体験させたいという神様の私たちに対する愛から来ているのです。福音を伝えに出かけた弟子たちは苦労もしたでしょう。受け入れてもらえず徒労に終わったこともあったでしょう。ルカ9章5節のイエス様の弟子たちに語る言葉でもわかります。
しかし、それ以上に弟子たちは福音の力強さ、奇跡、恵みを通して福音の素晴らしさを体験していったのです。私たちも体験しなければわかりません。福音を宣べ伝えていきましょう。 牧師 林健一
10月11日 泉のほとり
真実の神をもとめて
「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。」(エレミヤ7:4)
教会学校で使っている「聖書教育」は10月からエレミヤ書を読み始めました。テーマは「光に向かって」です。
エレミヤが預言者として主に召された時代は混迷のなかにありました。弱小国の南ユダは、北はバビロン、南はエジプトの強大な国に挟まれ風前のともし火でした。このような状況のなか誰もが安心できる言葉を求めていたのです。
このような中でエレミヤは神様の御言葉をイスラエルの民に伝えました。エレミヤが語った神様の御言葉は人々にとって心地よいものではなく、反対に悔い改めと忍耐を求めるものでした。
人々はエレミヤが語る言葉にことごとく反発し、「主の神殿が私たちにはある」という実態のない虚しい言葉に拠り頼みます。私たちはどうでしょうか?真実の神でなく虚しい言葉に拠り頼んではいないでしょうか?虚しい言葉に騙されないで真実の神さまを求めていきましょう。
牧師 林健一
9月27日 泉のほとり
悪霊につかれているのはどっち?
「それから、ゲラサの地方の民衆はこぞって、自分たちの所から立ち去ってくださるようにとイエスに頼んだ。彼らが非常な恐怖に襲われていたからである。そこで、イエスは舟に乗って帰りかけられた。」(ルカ8:25)
イエス様は病で苦しんでいる人を癒され、また悪霊につかれている人を解放されました。どちらも福音による喜ばしい出来事をあらわしています。
ここにも、神の子によって解放された男がいました。彼は悪霊につかれたために墓場で暮らし着物を着ないで人間としての人生を奪われていました。現代もたくさんの人たちが悪霊によって縛られている人生を送っています。
イエス様は暗闇と絶望の中にあった男を解放されたのです。まさに福音による解放の出来事でした。しかし、町や村の人々は恐怖に襲われてイエス様にここから立ち去ってくれと頼むのでした。
せっかく、私たちを解放してくださるお方が目の前にいるのに人々は恐怖のために解放の御業を受けることができませんでした。私たちも同じです。この世の様々な恐怖に襲われてイエス様を退けることはないでしょうか?真の解放を祈り求めていきましょう。牧師 林健一
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