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11月8日 主日礼拝 いったい、何者だろう
ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。 しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。(ルカ9:7~9)
肝心なことがわからないということがよくないだろうか。いい大学を出ていても、博士号をとっていても、オリンピックやスポーツで名をはせていてもその後の人生で転落する、失敗する人の話をよく耳にする。
その世界では一流であったとしても人生、人間にとって一番大切なことを知らないということはよくあるようだ。ここに登場してくるヘロデという人物をはじめユダヤの人たちもそうだった。ユダヤの人たちはずっと救い主を待ち望んでいた。旧約聖書をよく読みメシヤ(救い主)についてよく学んでいまかいまかと待ち望んでいた。
ところが、待ち望んでいたメシヤ(救い主)であるイエス様が来られたのに誰もわからなかったのである。これはいったいどういうことだろうか?なぜ彼らはわからなかったのか?救い主とは素直に神様からの救いを受け入れることができる人だけに見えるのだ。私たちは神様、神様といっても結局のところ自分を神様としていることがある。そんな私に神様が見えるはずはない。
ヘロデもユダヤの人々も己を人生の支配者とし他から真の支配者が来られることを望んではいなかった。だからイエス様が目の前に来られてもわからなかったのだ。私たちも真に素直になれなければいつまでたっても神様はわからないのだ。
9月20日主日礼拝メッセージ 「みことばだけ、そして信仰だけ」 聖書:ルカによる福音書8章16~25節
イエス様と弟子たちが舟に乗ってガリラヤ湖を渡ろうとしたときの出来事です。突然、突風が湖に吹きおろしてきて彼らの乗っていた舟は水がかぶって転覆しそうになったのでしょう。
弟子たちはイエス様を起こして助けを求めました。弟子たちのなかに漁師もいましたがどうにもできなかったようです。イエス様は起き上がって、風と荒波とをお叱りになりました。すると不思議なことに風と荒波はまたたくまに止んで静かになりました。
イエス様は弟子たちの不信仰をお叱りになりました。弟子たちは己の不信仰を嘆いたことでしょう。でもイエス様は知っていたのではないでしょうか。どんな人も最初から信仰があるわけではいことを。
弟子たちは、災難に遭遇してイエス様を呼び求めることによって イエス様が真に神の子でありこの世界を治めておられるお方であることを知りました。私たちも同じであります。逆境のなかで私たちはイエス様を呼び求め、このお方の御力を知るのです。
クリスチャンは自分のなかにある神様の愛を表さなければなりません。神様の御言葉の確かさを表さなければなりません。しかし、イエス様が言われた。
16節 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。17節 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。
あかりは周囲を照らしてこそ本来の役割を果たすのだと、あかりを隠してしまって何の意味もないとイエス様は言われます。しかし、私たちクリスチャンはイエス様が言われたように、本当は人々に見えるようにしなければならない光をおおい隠してしまっているのではないでしょうか?
神様の言葉が私たちを照らすためには、明りを高いところに持ってこなければなりません。寝台とかますとかは、この世の生活の座をさします。御言葉を聞いても、日常生活の下においたのでは、力も知恵もありません。しかし、御言葉を私たちの生活の上に掲げていくときに、御言葉は光となり、私たちを慰め、励まし、支えてくださるのです。
光をどうして隠すのか?
ではどうしてせっかくの光を私たちは隠してしまうのでしょうか?光が私たちの目には見えていないのでしょうか?私たちはこの世のものに夢中になってしまい、本当に価値あるものを見失っているのです。
18節 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。
イエス様はよくよく私たちにこう言われるのです。「どう聞くかに注意しなさい」これは「見なさい」あるいは継続して「注意し続けなさい」というニュアンスがあります。よく注意して見続けなさい。なぜなら、あなたが持っていると思うものがすべて価値のないものであり、ほんとうに持つべきものを持っていないことに気づかされるときがくるのだと言っているのです。
私は先週、病院やホームに入居されている教会員の方々を訪問することができました。T姉を訪問したとき、週3回の透析などほんとうにお辛そうな状態でした。私と対面するなり泣きだして先生が訪問に来てくれてほんとうに嬉しいといいました。T姉は「先生、家族が近くにいるのがいちばんだよ」とそのときの私は何も思わないで聞いていました。
しかし、イエス様のこのお言葉を聞きつつ、私は今、真に価値あるものを求めているのだろうか?イエス様の「持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」というお言葉にハッとさせられました。
自分はいま、求めているものは真に価値あるものでなく死をむかえたとき何も持っていないことに愕然とするのではないか?よし、いま気づかされたこのときほんとうに大切な神様の御言葉を第一にし、人生の上に掲げていくことを決意させられました。皆さんはどうでしょうか?皆さんにとって何が大事でしょうか?御言葉でしょうか。それとも何か別のものなのでしょうか。それは皆さんを永遠にささえるものでしょうか。幸せをもたらすものなのでしょうか。
イエス様は私たちを持たない者から豊かに持つ者へと招いてくださる。
イエス様のお言葉に耳を傾け聞くならば私たちは持たない者から豊かに持つ者へとなるのです。
なぜならイエス様は
21節 するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。
神様の御言葉を聞いて行う者をご自分の家族なのだとはっきりと宣言されました。いっけん、イエス様のお言葉は血縁の家族にたいして冷たいように聞こえますがそうではないのです。イエス様は家族を長男として養われました。最期まで母マリヤのことを十字架上でご自分がお苦しみになっても、御心にかけ最愛の弟子ヨハネに託したのでした。イエス様が言っている意味は何でしょうか?
もう一度、イエス様のお言葉を聞いてみましょう。「神様の御言葉を聞いて行う人こそ、私の母、私の兄弟なのである。」これは神様の御言葉を聞いて行う人のみというのでなく、神様の御言葉を聞いて行う人は、だれでも神様の家族だとイエス様は言っておられるのです。
ヨハネによる福音書1章12節
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 13節 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
とあります。神様の御言葉を聞いて行う。「聞く」ということはイエス様の人格をとおして呼びかけてくださった言葉を聞いて信じて行う。ということです。そのような人となるならあなたは神様の家族であり、永遠の命へと招きいれられた方なのです。
向こう岸へ渡ろう
私たちは信仰による喜びの世界へと渡っていこうではありませんか。
22節 ある日のこと、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、一同が船出した。
イエス様は私たちを諦めや絶望の世界から愛と平和と喜びの世界、場所に一緒に渡ろうと言われます。あなただけで渡るのでなく一緒に渡ろうと招いてくださるのです。
聖書の中に海とか水という言葉が出て来ますが、それは不安をあらわすことが多い。私たちの信仰生活もこの不安を超えることなしに、向こう岸へ行くことはできません。イスラエルの人たちが神様に愛されていながら、神様の約束の地に行くためには、荒野をさまよわねばなりませんでした。それと同じように、私たちが信仰の向こう岸へ行こうと思うとき、絶えず不安が起こります。私たちは、不安と恐れで、岸辺にしがみつくのです。風が吹いても、岸にいる間は自分の身は安全であり、不安はありません。多くの人々は自分の身の安全を考えて渡らないのです。
それでは、いつまでたっても信仰の世界にある喜びを見いだすことはできません。向こう岸へ渡ろうと言われたイエス様の言葉を聞いて、船を乗り出すとき、たしかにそこには激しい突風が起き、船は沈みそうになります。ああこんなことになるなら岸を出なければよかったと思うかもしれません。
ですが、そのときこそ信仰をおおいに用いるチャンスです。信仰をおおいに用いてイエス様に拠り頼むとき私たちはどんな困難や逆境が襲いかかってきてもイエス様の御名がそれよりもはるかに勝るのだということを知るのです。
お祈りいたします。
9月13日 主日礼拝メッセージ 「みことばを聞く正しく良い心」 聖書:ルカによる福音書8章1~15節
イエス様は神の国のことを弟子たち、群衆に向かって話すときによく譬をつかって話しました。今日、読んだ8章もそうであってイエス様は神の国は種まきが種をまきに出て行くようなものであるというのです。種蒔きは種をいろいろなところに蒔きました。ある種は道ばた、またある種は岩の上、またある種はいばらの間に落ちました。
まかれた種は空の鳥に食べられてしまったり、踏みつけられ、あるいは根をのばすことができず枯れてしまう。いばらの間に落ちた種はせっかく芽がでたのにいばらにふさがれてしまい成長することができませんでした。しかし、種蒔きはさらに種をまき続けるのです。
すると、ある種は良い地にまかれて、はえ育ち100倍の実を結ぶのであります。イエス様は良い地に落ちたのは「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」(ルカ8:15)と言われました。イエス様は神の国を体験するためには、作物が育って実を結ぶために良い土壌と手間ひまが必要なように「正しい良い心」と「忍耐」が必要であると言われます。楽して美味しい実を得ることはできないようです。
種とは神様の言葉である御言葉のことです。私たちが聖書の言葉である神様の言葉を正しい良い心でしっかりと守り、忍耐を持って聞き従うときに必ず豊かな実を結ぶとイエス様は約束してくださいます。
御言葉のなかにいのちがあります。
イエス様が譬で神の国を語られたのは実際に神の国の恵みを体験させるためです。神の国は頭で学ぶのでなく体験するものです。神様の恵みは頭で知るのでなく体験しなければなりません。私たちは神様の恵みを体験するどころか頭で理解することすらできていないことがあります。ですからそのような人は神様を信じているといいながら神様の恵みを体験できないのでいつも渇いた信仰、自分で頑張る信仰、神様がいるような、いないような確信のない信仰生活になってしまうのです。どうしてそうなってしまうのでしょうか?神様の御言葉を受け入れないからです。
8:5 「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。」
この土とはどのような人でしょうか。イエス様はこのような人だと言います。
8:11 この譬はこういう意味である。種は神の言である。
8:12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
神様の言葉である種がせっかくまかれても、悪魔がきてすぐ神様の御言を心から奪い取ってしまうのです。以前は私たちの心も道ばたの土のように人の足に踏みつけられて固くなって神様の言葉を受け入れることができなかったかもしれません。けれども神様の恵みによって耕されて良い土になり神様の言葉を受け入れることができるようになったのです。だからといってそのままにしておくと、また固くなって神様の言葉がまかれても悪魔によって私たちの心から奪い取られてしまいます。私たちの心が固くならないように神様によって耕していただきましょう。
耕すこと
では、耕すとは?どのようにして私たちの心を神様に耕していただくのでしょうか。毎日、御言葉を聞くことです。
一ペテ 2:2には 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。
ペテロは神様の言葉を生まれたばかりの赤ちゃんがお母さんの乳を慕い求めるように、神様の言葉である聖書の言葉を慕い求めなさいと言っているのです。クリスチャンにとって聖書は健全に育つために毎日慕い求めなければいけないものです。昨日読んだから今日読まなくてもいいものではありません。また朝と昼食べなかったから夜3食まとめて食べようというものでもありません。無理して食べたら体を壊すように私たちの心も壊してしまいます。毎日、三食規則正しく食べることが必要なように毎日、聖書を慕い求め読み続けていくことが大切です。
御言葉を聞くことと同じように必要なことは神様に祈ることです。祈りはクリスチャンにとって霊的な呼吸です。アウグスティヌスは「祈りは魂の呼吸である」という言葉を残しています。
聖書にも 一テサ 5:17 絶えず祈りなさい。
と祈りはクリスチャンとして生きていくために必要不可欠なものであるのです。この二つを疎かにするなら私たちは神様の恵みから落ちてしまうのです。常に御言葉と祈りを慕い求めていきましょう。
信仰の実を結ぶには忍耐が必要だとイエス様は言われます。
8:13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
8:14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
イエス様は、私たちは神の国の祝福を体験するためには尚多くの忍耐を必要とすると言われます。言い換えるなら忍耐をとおして私たちは100倍もの豊かな実を結ぶのだというのです。豊かな実を結びたいなら忍耐が必要だということです。
なぜ、忍耐が必要なのでしょうか?できれば私たちは忍耐を避けて楽な方法で成功したいと思うのです。実は忍耐こそが成功への信仰でいうなら祝福へのいちばんの近道なのです。今やっているドラマで「表参道高校合唱部」というドラマがあります。高校生たちが合唱に青春をかけていくドラマのようですが自分も音楽をやっていたので懐かしい思いにかられました。私は中学、高校と音楽をやっていました。中学のときには全国大会を目指して先輩たちが築いてきた実績に続けと日々、練習をかさねていました。しかし、私はかっこつけなのか努力もしないでできたかのように演奏していました。結局は本番のときにぼろが出てしまったのです。そのかっこつけは神学生時代にもあらわれぼろが出てしまったのです。バプテスト史の授業で私が発表をしたときろくに読んで調べもしないのにわかったかのような顔をして発表をしたことに先生は大変私を叱られました。私の甘さが抜けていなかったのです。
イエス様は逆境や試練をとおして私たちに忍耐の歩みをするようにします。それは私たちのなかにある不純なものを表しにして正しくし真の成功、実を結ばせるためなのです。根が無ければさらに深く耕して根を深く伸ばすことができるようにし、いばらがふさぐなら余計な雑草を取り除いてくださいます。皆さんがイエス様の与える訓練から逃げ続けるなら祝福も逃げ続けるでしょう。そして試練がこれでもか、これでもかのごとく皆さんを襲うでしょう。なぜならこの世界は罪によって呪われた世界であり、絶えず私たちを苦しめるのです。「神様、なぜ?」と思うでしょうが、私たちが試練に遭うのは神様のせいでなくこの世界が罪によって呪われた世界だからです。ですからイエス様は忍耐をとおして私たちが罪に打ち勝つことができるようにしてくださっていることを知らなければなりません。
最後に
イエス様は良い地に落ちた種とは「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」
イエス様は御言葉を正しい良い心でしっかりと耐え忍ぶなら豊かな実を結ぶといわれました。神の国において実を結ぶことは人間の能力や力でないことを教えてくださいました。御言葉が私たちに実を結ばせてくださるのです。今日読んだ8章の冒頭には12人の弟子たちのほかに女性たちがイエス様に従っていったことが書かれています。彼女たちはイエス様が十字架にかけられたとき最後までイエス様につき従いました。弟子たちはイエス様を見捨てました。彼女たちは最後までイエス様に従ったのです。それゆえにイエス様の復活の証人となることができました。これはほんの一例にすぎません。私たちも最後まで御言葉であるイエス・キリストに信頼して従うときに豊かな実を結ぶのです。豊かな実を結ぶことを願ってお祈りいたしましょう
8月30日 主日礼拝メッセージ 「正しく聞くことと正しい反応」 ルカによる福音書7章24~35節
聞いても得られない私たち
ワシントン・ポスト紙の発案で世界的なヴァイオリニストのジョシュア・ベル(ヨシュア)グラミー賞を受賞した。はある実験をしました。自分の正体を知らせずに、ワシントンDCの地下鉄で演奏をしたのです。専門家たちは、厳重な安全対策をするようにと、実験の主催者側に忠告をしました。大ぜいの人が押し寄せるだろうと予想したからです。彼の駅での演奏の二日前、彼のボストンでのコンサートのチケットは、一枚一万円するものの全て売り切れました。
ジョシュア・ベルは、3億円もの価値のあるストラディバリウスのヴァイオリンで、レパートリーの中で最も美しい6曲を演奏し始めました。最高のヴァイオリニストが世界最高のヴァイオリンで、美しい演奏をしたのです。
ところが、だれも立ち止まりませんでした。時折、親の服のはしを引っ張って、足を急がせるだけでした。ただ一人の女性だけがジョシュア・ベルだと気づいて、立ち止まって演奏を聞きました。演奏後、その女性が払った20ドル(日本円2000円)は、ほかの人が差し出した金額の合計よりも多いものでした。人々はみな急ぎ足で、ジョシュア・ベルの前を通り過ぎて行きました。だれもが、それぞれの仕事で忙しかったからです。世界最高の美しい音楽があっても気づかない人たちのように、もしかすれば世界最高の価値あるものが私たちの目の前に置かれたとしても一生、いや、永遠に気づかないのはとても残念なことです。
イエス様は言われました。
31節 だから今の時代の人々を何に比べようか。彼らは何に似ているか。
32節 それは子供たちが広場にすわって、互に呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』と言うのに似ている。主は、今も演奏しておられます。しかし、私たちはその音を聞くことも、聞かないこともあります。「耳のある者は聞きなさい。」
神様の言葉を聞いてもわからないばかりか何の益も得ることができないでいる私たちです。どうしてだろうか?どうしたら神様の言葉から恵みを受けていくことができるのだろうか? 今日イエス様の御言葉から聞いていきたいと思います。
御言葉を聞く正しい目的を知ること
まず第一に神様の御言葉を聞く正しい目的を知ることです。
御言葉を聞く聖書を読む目的は何でしょうか?御言葉は聞いても聞かなくてもいいものではありません。私たちが罪から救われるためには御言葉を聞くことは絶対必要なものです。
御言葉を聞く正しい目的とは私たちが罪を知って神様に立ち返り癒されることです。
24節 ヨハネの使が行ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。 25節 では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮している人々なら、宮殿にいる。
バプテスマのヨハネの弟子たちが行った後にイエス様はヨハネについて群衆に語りはじめられました。それは問いかけといってもよいでしょうか?
「あなたがたは何を見に荒野の出てきたのか?」イエス様は、この群衆に「あなたがた」と語りかけます。この時、イエス様の声を聞いた聴衆の中には、直接ヨハネから洗礼を受けた者たちもいました。
イエス様は問います。
「あなたがたがわざわざ荒野に出て行ったのは、風に揺らぐ葦のようにか弱く、時代の権力に翻弄されるような不確かな存在を見るためだったのか。そんなはずはないだろう。それとも、自分たちとはまったく別世界に住まい、「きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮らしている人」、時の王様、ヘロデ王でも眺めるかのようにそこへ行ったのか。それならば、「宮殿」に向かったはずで、「荒野」なんかに行く必要はなかったはずだ。
イエス様の言葉は今の私たちにも同じように問いかけているのです。
私たちは何を見に、ここに来たのだろうか。時代の風向きによって揺り動かされる、風見鶏のような存在か。それならば、教会に来る必要などない。それとも、自己の欲望を満たした自信に満ちあふれた存在なのか。それならば、テレビを見ていればよい。私たちは何を聞きに来たのかはっきりと目的を知らなければなりません。イエス様はそれをはっきりと私たちに示してくださいます。
26節 では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。 27節 『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。28節 あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。 29節 (これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。 30節 しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした。)
イエス様はヨハネについて多くを語りつつ、しかし、実は、イエス様の周囲に集う私たち信仰者はいったい何者であるかを証言してくださっているのです。
しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
イエス様が言われた「神の国で最も小さい者」とは、私たち信仰者のことなのです。ヨハネはイエス様が到来される道を備えました。ですから預言者以上の者であると言われたのです。ヨハネは神の国、イエス様を指し示したのです。けれども、今、あなたがたはすでに神の国の只中にいるではないか。神の恵みの只中にいるではないかと、そうです。私たちはすでに神の恵みのただ中にいるのです。私たちはいつまでも右往左往していないでイエス様の恵みのなかにどっぷりとつかっているのだと、その恵みのなかでイエス様の言葉を聞いているのです。何と幸いなことでしょうか。しかし、私たちの不信仰がイエス様の御言葉を力ないものにしてしまっているのです。
ですから御言葉に対する正しい反応が必要です。
正しい反応とは自分のプライドを捨て神様の御前に謙遜になることです。
正しく聞くことは自分に向くのでなく語られる声の方向に耳を傾けることです。全身を向ける
プライドと固執を捨てなければ、よい御言葉を聞いても訳に立たないばかりか、かえって心を高慢にますます神様に対して頑なになってしまいます。御言葉を自分に都合よく解釈して、御言葉の真意とは違う反応を見せるからです。
32節 それは子供たちが広場にすわって、互に呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』と言うのに似ている。 33節 なぜなら、バプテスマのヨハネがきて、パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしないと、あなたがたは、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、 34節 また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。 35節 しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する」。
イエス様は子どもたちが二組に分かれて座っている。一方は、婚礼の祝宴の笛を吹く。しかし、相手は婚礼ごっこに応えて踊ってくれない。そこで、駄々をこねる。今度は逆の側が、葬式ごっこを誘いかけて、弔いの歌を歌ってみせる。しかし、相手は泣き真似をしてくれない。そこで文句を言う。ヨハネとイエス様に対する、パリサイ人と律法学者たちの態度は、このように子どもじみた姿だというのです。自分のほうで遊びのルールを設定し、相手が期待通りではないとあれこれと文句をいうだけのような子どもの態度だと言われます。
神様の悲しみをそのまま生活に表したバプテスマのヨハネの禁欲に対しては、「あれは悪霊にとりつかれている」と、勝手に婚礼の笛を吹いて駄々をこねる。今度は反対に神の国の喜びの祝宴を示すように、イエス様が生活全体をもって喜びを表して飲み食いすると、「見ろ、あれは大食いで大酒のみだ。取税人や罪人の仲間だ。」と、今度は葬式の歌をうたいながら参加しようとはしない。そしてヨハネとイエス様、二人の生活態度を批判し攻撃することで、自分たちが参加しないことを正当化するのです。
私たちもパリサイ人や律法学者たちのように自分のルールを正当化してしまい、あの人は余裕があるから奉仕ができるのだとか、あの人はこうだからと言い訳していつまでも自分の問題を棚上げしているのです。
もし私たちの正しさ、それはプライドでしょう。そこに固執するなら神様の言われたとおりに救いはないのです。
パウロがユダヤ人たちに語りましたが
使徒行伝
28:24 ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。
28:25 互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。
28:26 『この民に行って言え、/あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
28:27 この民の心は鈍くなり、/その耳は聞えにくく、/その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、/耳で聞かず、/心で悟らず、悔い改めて/いやされることがないためである』。
28:28 そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。
私たちはせっかく神様の御言葉を聞いているのですから今一度、御言葉を聞く正しい目的を知り、御言葉に対する正しい反応を持ちたいものです。
8月23日 主日礼拝メッセージ 「いのちの主が行われた回復の御業」 ルカ7章11~23節
私たちの信じている主イエス様はどのようなお方でしょうか?それがはっきりと示されているのが本日お読みした聖書の箇所であります。私たちの望みは主イエス様にあるのです。ここにおられる皆さんは主イエス・キリストを体験しておられるでしょうか。今も生きて私たちと共におられ愛し導いてくださっていることに気づいておられるでしょうか?
もし、そうでないとしたらなぜでしょうか?それは私たちの心のなかに主イエス様などおられないという思いがあるからです。主イエス様を知ることがなければ私たちの信仰生活は何の喜びもないでしょう。なぜなら愛やゆるぎない喜びは主イエス様から来るものだからです。主イエス・キリストを知らない信仰生活ほど悲惨なものはありません。何に依り頼んでいるかわからないからです。結局その人は目に見える存在、近場のものにしか心の拠り所がなくなってしまうのです。牧師やあるいは教会の兄弟姉妹など「溺れる者は藁をも掴む」で掴んだものがまったく頼りにならなくても掴まざるお得ないのです。
しかし、私たちは真に掴むものを知っています。今日は皆さんには頼りにならないものでなく真に頼りになる主イエス・キリストを掴んで帰っていただきたいのです。
イエス・キリストを掴むらなら死に打ち勝つ絶対的な希望が与えられます。
7:11 そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。
7:12 町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。
ナインは、ガリラヤ地方の南部、ナザレの南東約6キロメートルのところに位置する町です。ルカ福音書では、主イエス様は4章14節からガリラヤでの活動を始め、9章51節でエルサレムに向かう旅を始めるまで、ずっとガリラヤ地方を中心に活動しています。 そこで主イエスは息子を失った一人の女性と出会います。息子は彼女の「一人息子」で、彼女は「やもめ」だったと紹介されています。「やもめ(寡婦)」は当時、「みなしご(孤児)」や「寄留者」と並んで社会的弱者の代表でした。ユダヤ社会は男性中心の社会で、女性や子どもは、夫であり父親である成人男性に守られていなければ生きていくのが困難でした。「やもめ」「みなしご」は自分を守ってくれる夫や父親を持たないので、社会の中で本当に弱い立場の人々だったのです。また、人は自分の生まれ育った国に生きていれば、周囲の人々の支えが得られますが、外国に住む人は周囲の支えが得られないので、「寄留者=寄留の他国人」も弱い立場の人の代表でした。 このように見てくると、このやもめにとって一人息子は唯一の希望だったと考えられるでしょう。彼女が頼るべき相手は息子しかいないのに、その息子が死んでしまい、彼女は絶望のどん底に突き落とされていたはずです。 なお「棺」とありますが、貧しいやもめの息子のことですから、立派な棺ではなく、亡くなった人を運ぶ担架のようなものを指しているとも考えられます。
人々は女性につきそいますが何も言葉をかける術がありません。注解書では「やもめの深い悲しみに対して、町の人々は言葉を失ったのである。やもめ親子に注ぐ愛が真実であったからこそ、言葉を失っている。人間の愛の真実が届かない領域が明らかにされている。」
人間がどんなに踏ん張っても知恵を使っても解決できない事柄がたくさんあります。今日読んだ聖書であれば一人息子を失った彼女なのです。町の人たちは自分たちのできる範囲では彼女を支えることはできるかもしれない。けれども真には支えることはできないことを知っていたらからこそ言葉を失っていたのだと思います。
私も今、小松ヶ丘に行って集会のお手伝いをしています。でも月一回のお手伝いしかできません。もっと支えていくことができたらと思うのですが限界があります。それは教会の中でも同じことだと思います。兄弟姉妹が病んでいる何とか支えになりたいと思いながらもできないもどかしさを覚えます。
万策尽きて「祈ることしかできません」などと「まあ気休めぐらいになるだろう」と思っているなら、それだからあなたは何も掴むことができないのだと神様は言われるのです。私たちの最後の希望が主イエス様にあるのです。
7:13 主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。
7:14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。
7:15 すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。
13−14節「主はこの母親を見て、深い同情 憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。そして、近寄って棺に手を触れられると、…」。下線を引いた3つの言葉、「見る」「憐れに思う」「近づく」は、ルカ福音書ではセットのように他の箇所でも見られます。 ルカ10章の「善いサマリア人」のたとえにはこうありました。「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て 気の毒に 憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(33−34節)。 ルカ15章の「放蕩息子」のたとえの中にはこうあります。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。 「近寄る」「近づく」と「走り寄る」は言葉が違いますが、内容的にはほぼ同じです。
ここで「憐れに思う」と訳されている言葉は、ギリシア語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という動詞です。この言葉は「スプランクナ=内蔵、はらわた」という名詞に動詞の語尾をつけたもので、目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたが揺さぶられる、ということを表す言葉です。ある人はこれを「はらわたする」と訳しました。普通の日本語では「胸を痛める」と訳すのがよいでしょうか。胸よりも内蔵のイメージですから、「肝苦りさ(チムグリサ)」という沖縄の言葉が一番近いかもしれません。目の前の人の痛みを自分の体で感じてしまう、そのような深い共感を表す言葉なのです。 見て、はらわたするので、放っておけず、近づいていき、自分にできる精一杯のことをする。ルカ福音書は、愛するとはこういうことだと言おうとしているようです。その愛は何よりもまず、放蕩息子のたとえに示された父である神の愛であり、今日のナインの物語に示された主イエス様の愛であり、そして、善いサマリア人のたとえで示されているような、わたしたち一人一人に求められている愛なのです。
7:16 人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。
7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった。
今日の出来事は、列王記上17章にある預言者エリヤの物語とよく似ています。紀元前9世紀、エリヤはシドンのサレプタという町に住むやもめの死んだ息子をよみがえらせました。イエスのなさったことを見て、人々が「大預言者がわたしたちの間に現れた」(16節)というのはこの故事を思い出したためでしょう。「神はその民を顧みてくださった」という箇所で使われている動詞は「心にかける」とか「訪れる」とも訳される言葉です。ルカ1章68節以降のザカリヤの歌では「主はその民を顧みて解放し」と訳されています。なお、この前にある「恐れ」はただの恐怖ではなく、神の威光に触れた人間の自然な感情を表す言葉です。だから「賛美」につながっていくのです。
この出来事をただ人間の事柄だけに限定しまうなら主イエス様が見えなくなってしまうでしょう。死から生き返ったということを言っているのではないのです。主の顧みがないゆえに人は死ぬ。しかし、主の顧みゆえに私たちは主にあって生かされるのだとルカは語るのです。私たちもまた主の顧みを受けるときに死から命へと生かされる者になるのです。
主イエス様を掴む者は罪に打ち勝つ絶対的な恵みをあたえられるのです。
7:18 ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、
7:19 主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。
7:20 そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。
7:21 そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、
7:22 答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
7:23 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
この出来事の後、「来るべき方はあなたですか」という洗礼者ヨハネの問いを伝えに来たヨハネの弟子たちに対して主イエス様は語ります。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(ルカ7章22節)。
この出来事は、「貧しい人は福音を聞かされている」(22節)、主イエス様の愛に触れた人が絶望と死の暗闇から立ち上がるという、来るべきメシアの時代の始まりを示しています。わたしたちも今日、イエスによって始まったこの新しい時代を生きるよう招かれているのです。
私たちが真に主イエス・キリストを掴むときに死と罪に打ち勝つ力が与えられるのです。
お祈りいたします。
8月16日 主日礼拝メッセージ「よい人生 ほめられる信仰」 ルカ7章1~10節
7:9 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。
恐山菩提寺の院代(住職代理)であられる南直哉(じきさい)さん禅僧さんが「恐山」死者のいる場所という本を書いています。この方はとてもユニークな方でこの「恐山」という本のなかでも仏教の核心について書いておられます。たとえば仏教では死後の世界はあるのかないのか「答えない」のがブッダの時代からの公式見解だそうです。「無記」といいます。仏教の本質はこの世の無常なときをどう生きればよいのか?必ずしも簡単とは言えない人生を、最後まで勇気を持って生き切るにはどうするか?それこそが仏教の一番大事なテーマであって、死んだ後のことは、死ねばわかるだろう、それぐらいに考えればいい。
「恐山あれこれ日記」というなかでも「輪廻転生」も当時民衆に善悪を教育するためのもの、人生に意味を持たせるものだったとして当時の支配階級と結びついたものであったとか?世のお坊さんが聞いたら「余計なことを言うな」と随分と過激なことをおっしゃるなと思いました。
南さんは「魂」についてはないと困る。それは人が生きる意味と価値のことだと。ないと困るけどそこら辺に転がっているわけでもない。「これが俺の魂だと」自分で勝手にでっちあげるわけにもいない。では、どこにあるのか。魂というものは、一にかかって人との縁で育てるものである。他者との関係の中で育むものでしかない。と書いてありました。またその魂を最初に肯定してくれる存在が母親なのだと。そういう意味において聖書はすごいことを語っているなと思います。
エペソ人への手紙では
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
すべてをつくられた神さまがあなたは天地の造られる前から、キリストにあって愛のうちに定められ選ばれた者だと宣言してくださっているのです。私たちは一から縁を結んで育てていかなくても、仮に縁を結び人がひとりもいなかったとしてもあなたの魂を愛し、育んでおられる方がいることを忘れてはなりません。今日、読んだ聖書の中にも神さまに愛され育まれた人がいます。百卒長です。この人は異邦人でした。異邦人は当時イスラエルの人々が、‟奴らは真の神を信じていない”と言って軽蔑されていたのです。しかし主イエス様に「これほどの信仰をもった人は、イスラエルの中でも見たことがない」と称賛されました。
主イエス様がガリラヤ湖畔の町、カペナウムにおいでになった時のことです。この町に住む百卒長(百人隊長)の部下が、「病気になって死にかかって」(2節)いました。
当時、地中海の周りの広大な地域は、ローマ帝国によって支配されていました。イスラエルもそうでした。ローマ帝国は各地に、治安維持と民衆の反乱を抑(おさ)えるために、駐屯軍を置きました。カペナウムにも駐屯軍が置かれたのでしょう。その駐屯軍において、百人の部下を指揮するのが百人隊長でした。
死にかかっていたのは、彼が頼みにしている部下でした。それだけに、何とか助けたいと思いながら、しかし悪化していく部下の病状に気を揉んでいたことでしょう。
そんなとき、主イエス様がカぺナウムに来られたという情報を、百人隊長は聞きました。以前から、主イエス様が病人を癒(いや)しているという噂を、彼は耳にしていたことでしょう。主イエス様なら、部下の病気を癒すことがおできになる。そう思った百人隊長は、「この百卒長はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした。」(3節)頼みました。
百人隊長に遣わされて、主イエス様のもとにやって来たユダヤ人(イスラエル)の長老たちは、熱心に願ったと言います。
「彼らはイエスのところにきて、熱心に願って言った、「あの人はそうしていただくねうちがございます。 わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」。
(4~5節)。
異邦人が、ユダヤ人からこれほど認められ、称賛されるのはめずらしいことです。先ほどもお話ししましたが、ユダヤ人は、自分たち以外の諸民族を“異邦人”と呼び、まことの神を信じない人々として軽蔑し、忌み嫌っていました。汚(けが)れた人間と見なして、付き合うのを避けていました。そのようなユダヤ人が、これほどほめるのですから、この百人隊長の人となりが推察できます。おそらく彼は、ユダヤ人が信じる神を信じていたでしょう。ユダヤ人が集会を共にするために集まる会堂(シナゴーグ)には、異邦人であっても神を信じる者は、その集まりに加わることができた、と言います。この百人隊長も、そのような異邦人の一人だったに違いありません。しかも、彼は、ユダヤ人のために自腹を切って会堂を建ててくれた、と言います。百人隊長の給料は、それほど高額ではなかったでしょうから、自ら会堂を建てるというのは半端な信仰ではありません。だからこそ、ユダヤ人の長老たちも、これほどの信仰と認めて、彼のために使いをし、尽力したのです。
けれども、主イエス様が「これほどの信仰」と認めたのは、そのような信仰ではありません。異邦人なのにまことの神を信じたから、自腹を切って会堂を建てたから、「これほどの信仰」とほめたわけではないのです。では、主イエスが「これほどの信仰」と称賛されたのは、一体どんな信仰だったのでしょうか?
今日の聖書箇所を読むと、百人隊長が途中で、考え直したことが分かります。最初は、主イエス様に来てもらおうと考えて、長老たちを使いにやったのです。ところが、主イエス様がおいでになる途中で、来ていただくには及ばない、と考えが変わったのです。そこで、第二の使いを、今度は友だちを使いにやって言わせました。
「そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。
それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。
わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。(6~8節)。
この言葉の後半に、百人隊長が、主イエス様に来ていただくには及ばないと、考えが変わった理由が示されています。
彼は、百人の部下に命令し、指揮する隊長という立場に立っています。彼が命じれば、部下たちはその言葉に従います。それは、百人隊長が軍隊の権威の下に置かれているからです。隊長の言葉には権威があるのです。だから、部下は従います。そのとおりにします。
それと同じ権威が、いや、それ以上の、比較にならない、偉大な権威が、主イエス様の言葉にはあると、百人隊長は気づいたのです。自分がローマ軍の権威の下に置かれているように、主イエス様は“神の権威”の下に置かれている。主イエス様が、神の権威の下に命じれば、その言葉は実行される。主イエス様にわざわざおいでいただかなくても、ひと言“病気よ、治れ”と命じてくだされば、その言葉は実現する。病気は癒される。百人隊長は、そのように信じたのです。
つまり、百人隊長は最初、主イエス様に来てもらうことが大事だと考えたのです。主イエス様が目の前にいないと、癒しの恵みは実現しないと考えたのです。それが、彼の最初の信仰です。
けれども、途中でその信仰が変わりました。主イエス様に来ていただかなくていい。目の前にいなくていい。主イエス様の御(み)言葉があれば、それでいい。主イエス様がお語りになる御言葉を信じよう。その御言葉は、神の力と愛に裏打ちされた権威によって、必ず実現する。そういう信仰に変わりました。
そして、この信仰こそ、主イエス様が「これほどの信仰を見たことがない」と言って、ほめられた信仰なのです。目に見える立派な会堂を建てるような信仰ではなく、目に見える主イエス様が目の前にいることを願う信仰でもなく、主イエス様は目に見えなくても、ここにいなくても、その御言葉を信じる信仰です。徳善義和先生は主イエス様のこの言葉をこう訳しています。
「私は言う。イスラエルの中でさえ、私はこれほどの(神の)真実(の働き)、(それに対する信頼)を見たことがない」言い換えれば信仰とは神さまの真実の働きに対する信頼なのです。
先ほど、南直哉(じきさい)さんが書かれた恐山の話をしましたが、人は誰しも自分という存在を受け止めてくれる何かを捜し求めています。死んだら人はどこに行くのだろうか?そう思うのも死の先にあるものが見えない不安からくるものではないでしょうか?そのような不安に誰が答えてくれるのでしょうか?その不安を解消するために人々は必死に目に見えるものに安心を求めるのではないでしょうか。
私たちは、目に見えるものを求めがちです。財産、成功、地位、名誉、健康‥‥‥努力もその結果を、友情もそのしるしを、愛もその形を求めがちです。信仰も、これだけ献金をして会堂を建てたとか、これだけ奉仕をしている、といったことを重要視してしまうかも知れません。そして、神さまもそうではないでしょうか。目に見える、形あるものを求めるのです。神の存在を証明せよ。そうでなければ信じない、というのです。
けれども、大切なものは目には見えません。神様の存在、主イエス様の存在が目に見えることが重要ではないのです。目には見えない神様を信じる。その力と愛を信じる。その力と愛に裏打ちされた権威ある御言葉を信じる。神様の御言葉はきっと実現すると信じて生きる。それが、主イエス様にほめられ、喜ばれる信仰です。
「これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」(9節)
私たちは皆、この御言葉の前に立たされ、この御言葉に問われることでしょう。“あなたには信仰があるか。あなたには、これほどの信仰があるか”と。言い換えればあなたは神さまの真実を信頼しますか?
私たちには、この百人隊長のような信仰があるでしょうか。御言葉を信じる信仰があるでしょうか。御言葉はそのとおりになると、神様の偉大な権威を信じているでしょうか。自分を省(かえり)みて、ああ、御言葉を信じる心が足りないなあ、神様の偉大な権威を信じる信仰が薄いなあ、と感じざるを得ません。
でも、このままで終わりではありません。百人隊長の信仰が変わったように、私たちの信仰も変えられます。それは神さまの真実が私の魂に働いておられるからです。御言葉を聴き続け、それを行おうと祈り、従い続けることで成長していきます。そういう信仰の旅を、私たちは歩いているのです。
お祈りします。
8月9日 主日礼拝メッセージ 「偽善を捨てて行いの信仰へ」 ルカ6:39~49
本日は「平和礼拝」として「平和」を願い祈る大切なときを神さまにおささげします。奇しくも本日は8月9日です。午前11時2分、長崎に原子爆弾が落とされました。広島につづいて人類最も悲惨な出来事がこの地に起こりました。
記録では73,384人という尊い命が失われました。東日本大震災で亡くなられた方は15,892人です。「神さまどうしてこんな悲惨なことが起きたのですか?」と訴えた私たちです。自然の脅威も恐ろしいですが、人間の犯す過ちがどれほど恐ろしいものであるかを私たちは知らなければいけないと思います。かろうじて生き残った人74,909人の方々が今でも放射能による被害を受け後遺症の苦しみの日々が続いています。歌手の福山雅治さんが「被爆2世」だと明かす記事が話題になりましたけども、福山さんが原爆の恐ろしさ、悲惨さ、なお苦しみ続けている人たちがいることを知ってほしいということで明かされたのではないかと思うのです。ただ「被爆2世、3世」というだけで女の子は結婚できない。近づいたら移るなど差別がある現実も知りました。
現在、福島の方々に対しても同じ偏見や差別が起きていることを知らなければなりません。原発事故による放射能漏れなどによる深刻な被害が起きていますが、福島出身と聞いただけで近づくな、移るなど心無い言葉が浴びかけさせられています。
聖書のつげる平和は、争いのない世界を指すのでなくもっと積極的なものです。何ものを欠如していない全く充実した状態。生のあらゆる領域にわたって神のみこころにかなった望ましい状態にあり、造られた命が幸いに満たされている様にあることなのです。私たちの住んでいる日本は、現在戦争をしていません。だからといって聖書が語る平和な状態でしょうか?また私たちの家庭は平和と呼べる状態でしょうか?自分の身近な人を犠牲にしての幸せは聖書では絶対にあり得ないことを語るのです。完全な平和とは、人間の努力によって実現するというものでなく、根本的に神さまから与えられるものなのです。
真の平和を私たちの人生につくり出すために「偽善を捨てて行いの信仰へ」と方向転換しなければなりません。そのためには私の姿がいかに偽善であるかを知らなければなりません。イエス様は私たちをこうだと語ります。
6:39 イエスはまた一つの譬を語られた、「盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。
6:40 弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。
6:41 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
6:42 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。
人の欠点、身勝手な態度に我慢できない私に対してイエス様は言われるのです。まず、はじめに自分のなかにある梁を取り除きなさい。そうすれば兄弟のちりを取りのけることができるのだと。でも私はこうイエス様に言うのです。「だってイエス様、わたしは一生懸命やりました。なんで私がこんなにまで我慢しなければならないのですか。ひどいじゃないですか」
イエス様は「あなたが神さまを見て自分のなかにある丸太、それは罪、弱さ、恐れ、憎しみに気づき、神さまから取りのぞいていただかない限り、(それは神さまの愛に満たされる以外の何ものでない)ずっとその兄弟のちりを見て悩み、苦しみ、傷つき、憎み続けることになる。それでよいのか。私はあなたをそこから救うことができるのだが。と招いておられるのではないでしょうか。
「どうして私を愛してくれないの。ひどいじゃない」と一緒になって叫び続けていることには何の救いも、希望も見出せないことをイエス様の言葉によって私たちは悟らなければなりません。
私は神学生のときに同期の神学生に母の愚痴をこぼしたことがありました。いかに母が身勝手でひどい人であるかということを延々と語り続けたのです。彼は黙って聞いていてくれました。私が話し終わって満足したのか、その後彼は「君はお母さんのために祈っているかい?」と言われたときはっとしたのと同時に、彼に対して激しい怒りと憤りを感じました。自分のなかにある偽善を見抜かれたからです。母に対して愛があったかということと同時にイエス様に自分を愛ある者として変えていただくように祈り求めていたのか鋭く突かれたそんな経験でした。彼をとおしてイエス様が私に語ってくださった言葉だったのです。
6:43 悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。
6:44 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。
6:45 善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。
人間の身勝手さ、ずるさに対して愛で勝利していくことは大変難しいことであります。けれども、そこにしか私たちが自由にされない道があることも事実です。そして多くの人たちが愛によって勝利してきたことも事実です。負けてしまってはいけません。イエス様の十字架の真の愛を知らないならば愛で勝利する話など馬鹿らしくて聞いていられないでしょう。「イエス様の愛、何ふざけたこと言ってのんかね。」「馬鹿、馬鹿、なんて馬鹿なの」でもそういう人の人生は愚かで、ゴミを溜めているゴミ屋敷のようなもので悪臭を放ち、心から歓迎する人などいないのです。私たちはイエス様の愛によってこの世の暗闇、偽りに勝利しなければなりません。
東京新聞社会部で発行している「あの戦争を伝えたい」本のなかにキリスト教弾圧の記事が書いてありました。村上宣道先生の体験が書かれていました。牧師をしていた父が特高警察に逮捕されると「スパイの子には近づくな」と友だちもその親も態度を変え、村上先生は独りぼっちになりました。また親しくしていた教会の信徒たちでさえ、「もう、うちには来ないでほしい」と顔をこわばらせたそうです。教会は解散され十字架は目の前で塗りつぶされてしまった。
だれが本当の友だちで、だれが信じられる人なのかわからないそういう時代だったと言っておられます。そのような経験をした人たちが当時、教会関係だけでなく戦争に異議を唱えた人たちにたくさんおられることを知りました。
また、戦後特高警察であった人たちが取り調べをした人、家族のもとへ来て謝罪をしたということも聞きました。人間不信に陥っても当然と言える人たちが神さまの愛を喜んで伝えているのです。人から見て絶対不可能なことを神さまは為してくださるのです。私たちの心を真に神さまに向けるときに神さまが私たちに働いてくださるのです。
エゼ 36:26 わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
ロマ 5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
ですから私たちはどんな悪の前でも屈することはありません。私たちの心に働く神さまの愛と恵みを信じていきましょう。
6:46 わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
6:47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。
6:48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。
6:49 しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
イエス様の言葉を聞いて行なうとはどういうことでしょうか?ただ聞いて行なうということではなくてイエス様の言葉に信頼して行なうということでしょう。イエス様との結びつきのなかで私たちの歩みは岩の上に建てられていくのです。行なわないということはイエス様を信頼していないということです。イエス様を信頼していないなら誰を信頼しているのか?突き詰めて言うと自分ではないでしょうか?自分がぐらつけばすぐにでも家は壊れてしまいます。土の上に家を建てるということはそういうことではないでしょうか。
しかし、イエス様はそのような家を建ててはならないと言われるのです。「あなたがたが建てる家は揺るがない家である。あなたがたの心は揺れる。ちょっとしたことが起こっても、それはひどい衝撃となる。涙が出る。耐えられなくなる。苦しくなるのです。しかし、なぜ、涙が出るのでしょうか。涙を流れるままにすることができるのでしょうか。主がここで建てるように求めておられる家そのものが揺るがないからです。 主イエスがここで語られる家は、われわれが叫んだって、泣いたって崩れない家です」
主イエス・キリストは私の言葉に聞いて従い行なう者はそのような強固な家を建てるのだというのです。あなたは「主よ、主よ」とただ呼びながら何もしないでいるのでしょうか?そうではなく主の御言葉に従って行なっていくのでしょうか。その違いであなたの人生は強くもなり弱くもなります。また真の平和をもつか、もたないのか分かれます。多くの教えより、日常での小さな実践が私たちの信仰の歩みには必要です。あなたの心が主の平和で満たされていないなら、生活のなかで御言葉に対する従順が不足している部分は、何なのかを主に示していただき真の幸いと平和を主からいただきましょう。
1月8日 初週祈祷会メッセージ マタイ7章1~5節「余計なものを取り除け」
神様は祈る私たちを真剣に見ておられます。上から高みの見物というように見ているのではありません。私たちの祈りには最期まで責任を持って見られる方です。
私たちは祈る時に神様を見ているだろうか?礼拝の時に神様を見ているだろうか?メッセージをして感じる時があります。神様を見て礼拝をしている教会なんだろうか?もしかすれば牧師や語るメッセンジャー、あるいは教会の人たちを見てどこ見ているのかなと思う時があります。私自身見えていると思い込んでいたところに怖さがあった。ことを告白します。
私たちが神様をきちんと見ることができないならば、いったい私は何に目をふさがれているのでしょうか?恐れや虚栄は私たちの目をふさぎます。
イエス様は山上の垂訓で私たちに余計なものを取り除かれるように語られました。
1節 人をさばくな。自分がさばかれないためである。2節 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
「人を裁くな。」とあります。「裁く」とは「裁判をする」ということです。言葉には「見分ける、判断をする」という意味があります。
旧約時代においての「裁く」とは曲がったものをまっすぐにするというヘブライ語の意味から来ています。苦しめられている人たちを正義に神が裁かれて立ち上がらせる。そして二度と悪に苦しめられることのない地に住まわせる。という意味です。
しかし、ここでの「裁く」という言葉は、ギリシャ語には「優っているとする」という意味があります。つまり、自分のほうが誰かよりも優れているとするのです。分かりやすく言えば、「私の方が、あの人よりも優れている」、あるいは「俺はあいつよりはマシだ」ということです。そのように決めつける。それがここでイエスさまがおっしゃっている、「裁く」という意味であると言えます。
「人を裁くな」と言うことの理由は、「神様が私たちをお裁きになる」からということです。そのことは、自分が人を裁く、それと同じように神様が自分をお裁きになる。そのために人を裁くな、と主イエスは言っておられるのでしょうか。イエス様は、私たちにそのような神様との取り引きを教えるような方ではありません。イエス様がこのことによって私たちに伝えていることは、神様が私たちをお裁きになる、ということです。そして、私たちが人ではなく、神様の方を見るときに「自分の目の中の丸太」に気づかされていくのです。
3節 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4節 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 5節 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
イエス様は、兄弟の目にはちりがあり、あなたの目には梁がある、と言っておられます。ちりと梁とでは、全く大きさが違います。私たちが分かるのは、人と自分とを見比べて、自分の目にもちりがある、ということです。ちりの量が少し多かったり少なかったりするのが、人と自分との関係です。しかしイエス様は、あなたの目には梁があると言われます。そのことは人との関係において、人と比べてのことではありません。人の罪や過ちと比べて、あなたの罪や過ちは何十倍何百倍も大きい、ということではありません。人との比較ではなく、神様があなたをお裁きになる、ということです。イエス様がここで言われているのは、神様があなたをお裁きになるその時、あなたの目には梁があることが明らかになるのだと言うことです。
ちりと梁は、罪や過ちの大きさや量を比較しての言葉ではありません。ここで比べられていることは、人間の裁きと神様の裁きなのです。人間が人間を裁く時には、お互いに相手の目にあるちりを見ているのです。しかし神様の前に立ち、神様がお裁きになる時、私たちは、目に梁がある者であることを明らかにされるということです。私たちの目にちりがあれば、少し見えにくいことはあるかもしれませんが、全く見えないということはないでしょう。しかし目に梁があったら、それはもう全く見ることはできません。私たちは神様との関係においては、神様の裁きの前では、見るべきものを何一つ見ることができない、全く目を塞がれた者なのです。神様との関係において、私たちの目を塞いでいる梁とは私たちの罪です。
この私たちの罪によって、私たちは神様から離れ、神様を忘れ、自分の思いによって生きるのです。その罪の丸太が私たちの目を塞いでいるのです。私たちが神様から離れ、神様を忘れるところから人を裁くことも生じます。裁くことは本来、主人である神様のみがなさることなのです。私たちが人を裁こうとするところには、神様に代わって自分が裁く者となろうとする私たちの罪が表れているのです。私たちに人を裁く資格がないのは、自分も似たようなものだからではありません。人を裁くことができるのは神様お一人だからです。人間が自分の目にある丸太によって目が塞がれ、神様が分からなくなってしまい、自分が裁き手になろうとしてしまう。そのことが人間の罪なのです。
他者を裁くということは自分が神様の御前にどういう存在であるかを忘れています。私たちは誰ひとりとして神様の御前に裁かれない者はいないのです。しかし、神様の裁きは私たちを神様の御心にかなう者として立たせて下さる裁きであることを知らなければなりません。神様の裁きこそ恵みであります。
1月7日 初週祈祷会 ルカ18章9~14節「どこまでもへりくだる」
旧約時代をはじめ、世界中の人々は神様にお会いし幸福を受け取るために様々な方法を持って礼拝をささげてきました。
神様に喜ばれるために、あるいは怒りをしずめるために、時には残酷な方法で動物や人を犠牲にささげるなどしてきました。香川県の高松常盤町教会に神学生のとき研修したおりにも雨を願うために若い女性を犠牲にした悲しい話を聞いたことがあります。人間の力の及ばない領域になる人は神様に祈り求めるしかありません。
では、聖書の神様はどうでしょうか?旧約聖書では神様はイスラエルの民に対して厳格ともとれる細かい規定を礼拝は神殿での祭儀において指定してきました。一番の目的はイスラエルの民が罪の赦しを神様より受け幸いと平安を受けることにあったのです。神の民においての礼拝の目的は何よりも神の民が神様の愛ヘセド(変らぬ恵み)を受けることであります。
そのためにはイスラエルの民はどこまでも神様の御前にへりくだることが必要だったのです。ですから神様が再三にわたって神様と人間との間に罪があり、罪は決して人間の手で解決することができないものあり、神様の憐れみと赦しなしに人間は神様に近づくことが決してできないことを神様はイスラエルの民に示したのでした。
それは同時にどんな罪であろうと神様にとって赦されない罪はなくいかなる罪を犯した人でさえも神様が善しとするならば赦されることを私たち人間に示すものでもあります。しかし悲しいかな私たちはどこまでも自分の義により頼む存在なのであります。けれども、その義が本当に私たちにとってどこまでも正しく、私たちを守ってくれる義であるかどうかわからぬものであります。
神様への祈りは神様の愛と自分の罪、そして神様と自分の関係を知らずしてできるものではありません。神様によりすがることを知ってはじめて祈りが具体化されるものなのです。イエス様は神殿での二人の祈りについて喩をだして話されました。ここに二人の人が登場してきます。一人はパリサイ人、もう一人は取税人です。
パリサイ人は別名分離派とも呼ばれ信仰に篤い人たちでした。ユダヤの人々は彼らを尊敬していました。イエス様も決してパリサイ人たちをやみくもに批判していたわけではありません。
しかし、彼らの自分で自分を義とすることだけは赦すことができませんでした。なぜなら赦しは神様のものであり、神様しか赦すことができないお方だからです。それではあなたがたは救われないと…
9節 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。10節 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。11節 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 12節 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
パリサイ人の祈りは決して悪いものでありません。むしろ正しいことです。しかし、イエス様はこう言われます。
14節 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
イエス様は神様に義とされた、赦された(憐れみを受けた)のはパリサイ人ではなく、彼がこのような人でなくて良かったと言っていた取税人でした。
なぜですか?どうしてパリサイ人でなく、取税人だったんでしょうか?
どうしてだと思いますか?
それは、パリサイ人は自分の義、正しさにより頼んでしまったからです。彼は神様に祈っていても結局自分はこうしました。ああしました。ですから認めて下さい。というふうにしか祈れかなった。取税人にはこれでいいとは思っていない。しかし、神様の御前に正しい自分ではない。なることもできない。
彼は神様に憐れみを求めます。
13節ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
彼は赦されるわけです。つまり神様に受け入れられるわけです。もう彼にとっては今が最高の祝福でしょう。人は誰か、結局は神様に受け入れられてはじめて心からの平安を得ることができるからです。
神様の憐れみを受け入れることができないほど辛いものはありません。パリサイ人はそこに留まることができなかったのです。へりくだることは自分を惨めにすることではありません。反対にへりくだって見えてくるものがたくさんあるはずです。へりくだることを今年のテーマにしていきましょう。
1月4日 主日礼拝メッセージ 創世記49章8~21節 「子どもたちの特性に応じた祝福の祈り」
新しい年を私たちは歩みだしました。目標を立てあれも、これもしたい。しかし、気をつけないと今までの失敗や、挫折したことのやり直し、取り返しの気持ちが先走ってしまいます。結局無駄な努力で同じ失敗の繰り返しをしてしまうことがあります。年を重ねているのに、昨年と同じことをしようとする人がいます。
クリスチャンの人生の歩みはやり直しではありません。まったく新しい始まりの連続です。神様はそのときにしかない主の御業を私たちに体験させて下さいます。私たちは失うことが怖くて神様が与えてくださるせっかくのチャンスを逃してしまうのです。
ちょうど、イエス様が話して下さったタラントのたとえに登場してくる1タラントの人のように主人からいただいた1タラントのお金を土に埋めてしまうのです。その当時の常識から見れば彼はもっともまともなことをしたわけですが、(土に隠すことが財産を守る最善の方法でした。)
しかし、彼のした方法は主人の望んだことではありませんでした。私たちも神様の御心ではないのに最善だと決めつけ行動してしまいます。では、私たちはどうしたら自分にとって正しい判断、適正にあった道を歩むことができるのでしょうか?ヤコブの子どもたちへの祝福と祈りの言葉をとおして学んでいきましょう。
49:8 ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。あなたの手は敵のくびを押え、/父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。
49:9 ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、/雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。
49:10 つえはユダを離れず、/立法者(統治者・王権)のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。
49:11 彼はそのろばの子をぶどうの木につなぎ、/その雌ろばの子を良きぶどうの木につなぐ。彼はその衣服をぶどう酒で洗い、/その着物をぶどうの汁で洗うであろう。(豊かさ)
49:12 その目はぶどう酒によって赤く、/その歯は乳によって白い。(健全な姿)
己の義でなく神様の義に依り頼む者に神様の祝福・憐れみはきます。
ユダは兄弟たちのなかでもヨセフ、いや、ヨセフ以上の祝福の言葉を受けます。ユダ(たたえる)は、兄弟たちのなかでたたえられ、他の子らはユダの前にひれふすようになります。獅子(力・威厳)のような力を発揮し、彼の権威は永遠に離れず、将来の王権(つえ)古代中近東では王の姿を表すのに羊飼いという言葉を使いました。)は彼から出る。ユダの子孫は、ぶどう木につながれたろばや雌ろばの子がいくら食べても十分なほどの、豊かな安定と繁栄を受ける。というのです。ユダが受けた祝福の意味とは何でしょうか?アブラハム契約(12章)の祝福の継承です。長男ルベンでなく、ヤコブの寵愛を受けたヨセフでもなくアブラハム、イサク、ヤコブに続いたアブラハム契約の祝福は4番目のユダに受け継がれていくのです。
ユダがそのような祝福を受けた理由は何でしょうか?彼は兄弟たちのなかでもルベンに劣らずだらしなく、(タマル事件)またシメオンやレビに劣らず残忍かつ攻撃的な人でした。ヨセフをエジプトに売ったのも彼でした。そのことで父ヤコブを欺きました。
しかし、同時に自分の罪を認めることができる人でもありました。彼はベニヤミンを守るために過去に犯した罪をヨセフの前で告白することができました。また、タマルを通して自分の過ちが明らかになったときは、これを正直に認めました。
ユダへの祝福の宣言から教えられることは、彼の素直な心と姿勢が神様の心を動かしたということです。同じクリスチャンでも、同じ教会員であってもその人、その人の心と姿勢を神様は見て、答えられるということではないでしょうか?やはり神様は私たちに公平に働かれるお方であることを知らなければなりません。そして、ユダの子孫からメシアが誕生して全世界を救うのです。ユダに与えられた祝福は、まさに祝福を受ける資格のない者が神様の愛と憐れみによって祝福され、引き上げられるということです。ユダが祝福される姿から私たちもまた神様の憐れみによって引き上げられていくのだという希望を持たなければなりません。神様の祝福は必ず時がくれば実現します。今はそうでなくても必ずなるのですから、希望を持ってしっかりと神様と共に歩んでいきましょう。
神様からの与えられた祝福の意味を知ることでより祝福された生き方をおくれる。
49:13 ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。
49:14 イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。
49:15 彼は定住の地を見て良しとし、/その国を見て楽しとした。彼はその肩を下げてにない、/奴隷となって追い使われる。
49:16 ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。
49:17 ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。
49:18 主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。
続いてヤコブは、ゼブルン、イッサカル、ダンに祝福の言葉を授けます。
ゼブルンは、海と関連する人生を生きるようになります。多くは語られていませんが、将来、ゼブルンの子孫が約束の地で受け継ぐ嗣業は、海辺にあり貿易によって繁栄するという約束が与えられています。牧畜をしてきたイスラエルにとって、海は不慣れな世界です。しかし、慣れない人生に打ち勝てば、地を手に入れるようになります。
イッサカルは農業に適した良い地を手にしますが、圧政下で暮らすようになります。物質的な欲のゆえに、やがてカナン人の奴隷になるということでしょうか。「たくましいろば」というのは、力強く、タフな者であるということ。しかし、「羊のおりの間に身を伏せる」とは、負うべき荷物を負わないで、身を伏せて怠けてしまうということであります。つまり、神様によって働きの賜物が与えられているのに、感謝して働くよりも怠けてしまう者であるがゆえに、強制的に働かされることになる。それが「奴隷となって追い使われる」ということでありましょう。
ダン(さばき)はその名のとおりに、自分の民をさばく部族となります。蛇は小さな生き物です。そのようにダンの子孫も、小さな部族でありました。しかし、蛇は奇襲を持って自分より大きな馬を倒すことがある。そのように、ダンの子孫も小さくても、他のイスラエルの部族と同じような力を持つことになるだろうという意味でしょうか。
それぞれの状況と立場にふさわしく必要な祝福が与えられます。与えられた祝福は何であろうか?なぜ自分にはこのような祝福が神様から与えられたのであろうか?与えられた祝福をとおして、私たちはさらに祝福をうける道を見出すことができます。
己の状況の不幸を嘆くよりも神様の祝福がどこにあるのかを見ていこう。
49:19 ガドには略奪者が迫る。しかし彼はかえって敵のかかとに迫るであろう。
49:20 アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。
49:21 ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。
それぞれ短い祝福の言葉ですが、ガドは苦難に遭うけれども、最後には勝利するということが言われています。アシェルには、農業的な意味での繁栄が約束されており、それをもって王の食卓に美味を提供すると言われています。ナフタリは、「解き放たれた雌じか」に喩えられています。野山を駆け回る自由さ、奔放さ、それに加えて「美しい子じかを産む」とありますように子孫の繁栄が、ナフタリ一族に与えられた祝福であるというのです。
ガドは苦難に打ち勝つ力、アシェルは食卓の豊かさ、ナフタリは自由奔放な精神、それぞれに素晴らしい約束が与えられていますが、何もかも持っているわけではないということは心に留めておく必要があります。
同じ場所にいても全く別の人生を生きることがあります。ダンとガドの立場では、アシェルやナフタリがうらやましかったでしょう。しかし、ダンとガドにはまた別の使命があり、祝福があります。全く違う人生ですが、すべては互いに必要なイスラエルの一員です。教会も同じです。全く違う人生ですが、私たちも神の家族としてお互いに必要な一員であることを忘れてはなりません。
また、それぞれ与えられた祝福、賜物が違うことをよく知っておかないと互いに批難し、裁きあうことになり、せっかくの祝福を台無しにしてしまいます。主から祝福された兄弟姉妹を自分と比較し羨ましがってはいけません。妬みになっていきます。
どんな祝福も神様から来るのでありますが、形は皆違い、それぞれにふさわしい形の祝福があたえられるのです。今年一年お一人ひとりがそれぞれ神様の祝福をもって歩むことを祈ります。
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