Archive for the ‘メッセージ’ Category
2013年1月30日祈り会メッセージ 神は霊の目を開かれる
み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。(詩篇119:130)
聖書は神の言葉である。神の言葉があなたの前に開けるとき、それは箱に包まれたものが開かれあなたのまえにあらわれたとき、あなたに知恵を与える。霊の目が開かれるのだ。
霊の目が開かれるとは、あなたがすばらしく変わるのでない。あなたは依然として愚かな人であることに変わりない。しかし、神との関係がはじまり、神があなたを知恵深い者に新しく変えてくださるのだ。
昨今、あなたは変わるとか、世間を見ればいろんなキャッチフレーズで勧誘する団体があるが、人が変わるなんてまずあり得ない。愚かなあなたは愚かなあなた。弱い私は弱い私なのだ。どこかのキリスト教会でもあなたは変わるなんて、ひどいことを言って騙していることがある。
あなたは変われない。変わらない。愚かな私は愚かな私、神に出会うことはありのままの自分に気づき、認め、その自分を神との関係の中で依り頼んでいくことがすばらしいのである。神の言葉によって私はますます自分の愚かさを知り、神の偉大さ、愛の深さを知っていくだろう。そしてますます神に依り頼んでいくことの幸いをしることなのだ。
2013年1月27日 主日礼拝メッセージ 『あなたの名は祝福となる』 創世記12章1~9節
時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。(創世記12章1~2節)
あなたの存在は家族にまわりに喜ばれているだろうか?案外私たちは無意識に気にしていないだろうか?「人からどんなふうに思われている?」「好かれているかな?」考えればキリがない。反対にあの人に、家族に傷つけれた、苦しめられた、あの人さえいなければと思ったことはないだろうか。文豪ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟がドラマ化された。ドラマのストーリーでは父親が息子たちを思うがままに支配し罵倒している姿が印象的だった。それぞれの子どもたちは人格が歪めれ人生が狂わされていく、時として私たちはカラマーゾフの兄弟のように父親に子どもたちのようになる。
どちらも不幸だ。人を傷つける存在になるか、傷つけられる存在になるか。突き詰めると私たち人間は人を不幸にしかできない哀れな存在なのかもしれない。しかし、神は言われる。「あなたの存在は祝福となるのだ」とアブラムは神にそのように言われて神の約束を信じて、自分が築き上げたすべてを捨てて神に従う決断をした。アブラム75歳の時である。75年も人生を生きていれば傷つけられたり、裏切ったりいろいろなことがあったであろう。ささやかな喜びもあったであろうが、アブラムは自分の人生、存在は何であったのか?思いめぐらしたに違いない。
そのような時に神の呼びかけがアブラムにあった。「あなたは私と一緒に残りの人生を生きてみないか。あなたの存在を私にかけてみないか」とアブラムは迷ったに違いない。自分だけでない。妻もいる。家族もいる。財産もあれば、今まで築き上げてきたものをそうやすやすと捨てることができるのか?
しかし、アブラムは神と共に新しい人生を出発することを決意した。それは始めて自分という存在を認められたことに喜びを感じたからではないだろうか。私たちはちゃんとしていなければ生きてはいけない世の中の価値に苦しんでいる。「あなたは仕事ができない」「あなたは病気だ」「あなたは~だ」いつもレッテルや評価に囲まれて生きている。基本的に私たちは今はきちんと生きているように見えても、いつか必ず「あなたは年寄りだ」「あなたは何もできない」という評価を受け、「生きる価値がないよ。」と言われる。だから年を重ねることに喜びがなく反対に恐れを持つ。
しかし、神はそうではない。75歳のアブラムに「あなたの存在は祝福となるのだ」と。聖書が言う「祝福」には「未来を切り開く力」という意味がある。年を取り、何を生み出すのか?という存在のアブラムが神の恵みによって新しく生まれ変わり「未来を切り開く力」を人々はアブラムよ、あなたをとおして見るのだ。と神は言われるのである。もし、あなたが「自分の存在など価値がない」と思っているのならアブラムに語られた神の言葉を信じてほしい。「あなたの名(存在)は今から祝福になるのだ」と
2013年1月23日祈り会メッセージ 詩篇119編121~128
119:121 わたしは正しく義にかなったことを行いました。わたしを捨てて、しえたげる者に/ゆだねないでください。 119:122 しもべのために保証人となって、高ぶる者にわたしを、しえたげさせないでください。
私たちにも詩人と同じ信仰の戦いがある。毎日が信仰を守るための戦いである。日本はクリスチャンが少ないから礼拝を守ることが大変だ。アメリカやヨーロッパはキリスト教国だから羨ましいと言うが、それは信仰者がどういう存在かまったくわかっていない。むしろ哀れな存在だといっていいだろう。信仰者は周りとの戦いではなく自分自身との戦いではないだろうか?神の御心を行うか、あるいはこの世の誘惑に負けてしまうのか。イエス様も常に戦ってきた。荒野での誘惑、ゲッセマネの園での十字架を前にしての一人での孤独な戦い、イエス様は戦いに勝利してきた。
この戦いは一人だけの孤独な戦いでないことを知らなければいけない。私たちが罪から、偽り生き方から解放され神の恵みの中に生かせられる大切な戦いなのである。主ご自身が苦しみの戦いを経て勝利された時から主の豊かな御業が主イエス様を通して表されたのである。私たちも戦いを通して新しい祝福された人生を神と共に歩むことを知らなければいけない。
私たちが豊かに主の御業を受けるためには障害となるものを取り除かなければいけないだろう。心の底にある自分でも気づかない恐れや心の傷などがあって私たちを容易に神への信頼を向けさせないようにしているのではないだろうか。
卓球の福原愛選手が全日本選手権で優勝した。彼女は昨年の9月に右ひじの手術をした。オリンピックでは痛い右ひじをかばいながら戦い、銀メダルを取ったのですからすごいことだ。手術後はひじの痛みもなくなって思いっきりプレーができるようになり、今回の優勝につながったとニュースでは報道されていた。
彼女は手術後プレーできない時期、苦手な筋力トレーニングをとおして下半身の強化をしたのである。自分を見つめて苦手な部分を克服しようと務めた。
信仰者も同じではないだろうか。苦難の中にあってこそ普段では決してないであろう深く神に祈り、神の御言葉から慰めや励ましを豊かにいただく。この期間をとおして神との関係がより深められていき、更なる成長、新しき人につくりかえられていく経験を神からいただく時なのである。
苦難はチャンスと言うが、苦難や失敗をしなければ自分の弱さや傲慢さに気づかない自分であったことを神から教えられる経験ができる。イエス様自身の祈りを見るときに苦難の中から、父なる神と格闘しより深くつながり、力強い歩みをしている姿を見る。
神は苦難の戦いをもとおして私たちを力強く新しくつくりかえられる方である。
2013年1月20日主日礼拝メッセージ 契約を立てられた神 創世記9章7~17節
「『にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう。』そして神はノアに言われた、『これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである』」。(創世記9章16~17節)
聖書の神が愛の神だという証がどこにあるのでしょうか。神はノアと家族、そして地上のあらゆる肉なる生き物と契約を立てられた。この地上に起きる私たち人間の罪ゆえにこの世界を滅ぼさないという契約である。神は私たちの犯す罪がいかに大きく赦されない罪であろうとも私たちを滅ぼさないと約束されたのである。これはなんという神の大きな憐れみと恵みであろうか。この神の契約がわからないゆえに何故神はこの世界に悪があるのに放っておかれるのかと私たちは神に訴えるのである。私たち人間は誰ひとり例外なく罪を犯す存在である。自分が裁かれなければいけないことを平然としながら自分は正しい者だと思っているのである。なんと恐ろしい存在である私たちであることか。
他人を傷つけ、憎みながらも自分の正義をふりかざして裁いているつもりなのである。昨今、体罰が問題とされているが根本の問題は生徒も不完全だが教師も不完全な者、過ちを犯す者であることを自覚できないことが問題なのではないだろうか。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130111-00000042-asahi-soci
体罰について語る桑田真澄さん
桑田真澄さんの体罰についてのお話を読み考えさせられた。神への偏見があったことに気づかされた。神は私たちの罪を「どうしてなのか?」「罪を犯した人間は即地獄だ」というような御方ではない。それはただ脅かして言うことを聞かせようとする愚かな大人と変わりないのではないか。神はそうではない。私たち人間が罪の大きさに気づき心から悔い改めることを望んでいる。待っている御方なのである。
私たち自身の罪への自覚と悔い改めなくして本当の救いはない。神は愛するひとり子であるイエス・キリストの十字架という酷いものを私たちに見せることでどんなに罪が恐ろしいか私たちが知ることを願っている。脅かして、苦しめて罪に気づくことはできない。神の私たちに対する真の愛を知ってこそ罪への悔い改めが生まれるのである。
1月15日(水)祈り会メッセージ 二心からの解放
「心の別れている者をわたしは憎みます」詩篇119:113
人の心は本来優柔不断な性質です。2つのものがあるならどちらも手に入れたいと思います。しかし、神さまはそれはあり得ないと宣言します。イエス様はどちらかを愛し、どちらかを疎んじるものだと言われました。神さまが二心を持っていたらどうでしょうか?私を愛していると言いながら、別の思いを持っている。私は神さまにとってどういう存在なのかと不信を抱くのではないでしょうか。神さまは一つのものに対してどこまでも誠実である御方なのです。
私たちは二つの心を持っています。それはいつか私たちの生き方を引き裂くのです。両方をもとめてどちらも手に入れられず苦しみ、病んでいくのです。一つのものを誠実に求めましょう。私自身あれもこれも手に入れたい、そうでなければ幸せになれないと考えていました。
しかし、結局は何も得ることがないばかりか持っているものまで失ってしまいました。一つの心で一つの誠実な生き方こそ、幸いな人生を送るただ一つの道であることを神さまは教えてくれます。
2013年1月13日主日礼拝メッセージ
大切なものを失ってもわからない
「罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」(創世記4:7)
アベルの捧げものは神様に受け入れられたが、カインの捧げものは受け入れられなかった。4章前半には兄カインと弟アベルの捧げものことが記されています。カインは神さまに対する怒りと弟アベルに対しての憎しみと妬みの心で大いに憤って顔を伏せました。
そこで主はカインに対して「なぜ、あなたは顔を伏せるのか、正しいことをしていたら顔をあげたらいいだろう。もし正しいことをしていないなら…」と冒頭の言葉に続きます。神様の忠告を聞き入れることが出来ずカインは最愛の弟アベルを嫉妬と憎しみのあまり殺してしまいます。
カインはどうしても自分の心を抑えることができませんでした。神から離れてしまった人の心は孤独と不安に満ちています。兄としてのプライドを傷つけられたカインは自分を守るために最愛の弟アベルを殺害するという悲しい選択しか出来なかったのです。
罪に支配されている人間は神、神が造られたすべての世界を否定します。自分が神になりたいからです。その心はすべての人間が持っているのです。誰一人として罪の支配から逃れられる人など一人もいません。人はまわりのものすべてを犠牲にしても自分のためにと欲望が果てしなくあるのです。それゆえに世界に悲劇が起こり続けるのです。
先週、高校生が自らの命を絶つ心傷む事件が報道されました。スポーツの強豪高ゆえに誰も行き過ぎた体罰が止められなかった、いちばん大切なものを失ってしまった。しかし、報道を見ると誰一人として大切な命が失われてしまったことの重大さに目をむけきれていないように思えます。人間は本当に大切なものを失ってもわからない憐れな存在なのです。いったいどうしたら人間は救われることができるのでしょうか。
①神のいない人生の痛みを知りなさい。
主の前を去ったカインは、エデンの東、ノドの地に住みました。(16節)
カインが住み着いた地名ノドは(さすらい)という意味です。12節で主はカインに向かって「あなたは地上の放浪者となるであろう」と言われました。カインは神がいわれたとおりに歩むものとなってしまいました。
エデン(喜び)を東から見るけれどもそこには戻れないのです。東(向かい側に見る、反対側に見る)に定着したカインの姿は、彼が、とても反抗的で、対抗心を心に抱いていたことを聖書は語るのです。彼の生き方は、尚惨めになっても神に敵対心をもち続ける生き方でした。赦されることを拒む生き方でした。自分の過ちを決して認めようとしない生き方でした。
カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。(17節)
カインは結婚して子どもを産み、町を建てました。町の名をエノクと名づけました。カインのさすらいの人生は終わったかのように見えますが、決して終わってはいませんでした。
カインの生き方は世代を追うごとに暗い影を落とします。20~22節を読むとカインの子孫は増え広がり、文化と文明も発展して生活が安定していくように見えます。しかし、神が宣言された「さすらい」の苦しみは続いていることが、カインの子孫レメク(力強い若者)の言葉を聞いたときにわかるのです。
レメクはその妻たちに言った、
「アダとチラよ、わたしの声を聞け、
レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
わたしは受ける傷のために、人を殺し、
受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
カインのための復讐が七倍ならば、
レメクのための復讐は七十七倍。」 (23・24節)
レメクは自分のために人を殺し、殺したことが当然のことだと高らかに歌いました。主がカインの赦しとして宣言された言葉をも自分の行為のために用いました。神の名と赦しは完全に消えて、暴力と絶え間ない悪の行為が繰り返される世界になりました。
ここに、悪がなぜあるのか?答があります。神はどうしてこのような悪が横行する世界をお許しになったのか?神がお許しになったのではありません。人間がそう望んだのです。しかし、私たちはこうも神に訴えます。どうして悪からカインを救われないのか?カインとアベル両方のささげ物を受取ればよかったのではないか?
じつはそのような心が、私たちをいつまでもさすらう者として報われない人生を歩ませているのです。絶えず神に敵対し、神のもとに帰ろうとしなければ私たちはカインのようにさすらう人生を歩み続けることになるのです。そこに安息はありません。エデン(喜び)に敵対する地であるノド(放浪)で留まってよいのでしょうか。
② 主の御名を呼び求めよ。
神のいない人生ほどむなしいものはありません。
最初の人アダムは、息子たちを失ってはじめて知ったのではないでしょうか?神のようになれると思った自分たちが、子どもたちをいっぺんに失うという悲劇に見舞われた。エデン(喜び)の園から追放され、ささやかながらでも喜びを味わったがそれも束の間でしかなかった。今と変わらないごく誰にでもあるような人生のひとこまです。人は賢く(アルーム)なろうとして裸(エルミーム)であること知った。アダムとエバに新たに男の子が誕生します。
アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代わりに、ひとりの子をわたしに授けられました」(25節)
セツとは与えられし者、安定した者という意味です。アダムは神から与えられしものが幸いであることを知りました。神の恵みに救われました。
セツはやがて成人し男の子が誕生します。セツにもまた男の子が生まれた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。(26節)
セツは男の子にエノス(弱い者)と名づけました。これは、人間の文明と文化を発達させ、大いに栄えたカインの子孫とは対象的に、人はいつかは必ず死ぬ、弱い存在であることを表す名でした。
セツは自分の子に、人間とは弱い者である。だからこそ神の御名を呼び求めなさいとエノスに伝えたかったのだと思うのです。私たちは子どもたちにどのように神の御名を呼び求めることを伝えるのでしょうか?
自分の弱さを十分に知って神の御名を呼び求めることを望むのか?反対にカインのように神から離れ、さすらいの中で神、人を呪う歌を教えることになるのか。神は私たち人間がさすらう人生を歩むことを深く悲しまれているのです。神はすべての人が主の御名を呼び求めて救われることを求めているのです。主の呼びかけに答え私たちは自分の弱さを知り主の御名を呼び求める者となっていきましょう。
2013年1月10日(木)祈り会メッセージ
「主の幻に生きる」 ハバクク2章1~4節
わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについて/わたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。 主はわたしに答えて言われた、「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
2013年私たちはどのような幻に生きるだろうか? 私たちはいかなる幻を抱いてこの1年を歩んでいるのだろうか。私は不思議な体験をしたことがある。大学でいつか学びたい。そのような願いを抱いていた。しかし、現実は夢と遠いものであった。でも私の心の中には大学の教室で座って発言をしているイメージが消えなかった。神学部での学びがゆるされて講義を受けていたときのこと、自分が若い学生たちと一緒に学んでいる光景、ああこれはいつしか願っていたことと同じ光景ではないかと不思議に思ったのである。
またこんな光景も描いていた。子どもたちの前で神さまのことをお話しているイメージである。常盤台教会での教会学校で、幼稚園で子どもたちに話しているのである。これも私が抱いていたイメージであった。実に不思議に思った。心に描いたことが現実となったのである。
油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。箴言4:23
あなたの泉を、外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。箴言5:6
スポーツ選手や音楽家でもイメージトレーニングをして本番に備えるということがあるが、私たちが普段思っていること、考えていることが私たちを支配するのではないだろうか。
普段私たちが何を考え、何を思っているかはとても大切なことであろう。 私たちがいつも、怒りや憎しみや恐れを抱いて生きるなら何と不幸で哀れなことであろうか。私たちの生活には絶えずそのような否定的な思いを抱かせる事柄でいっぱいである。だが私たちが主の幻に生きるならば、主はそのような思いさえも変えて下さり希望に満ちた歩みをすることが出来るように変えて下さるのである。
ハバククは苦しんでいた。激しい怒りを抱いていた。 神の民であろうイスラエルの民がバビロンによって苦しめられている。誰も救い出す者はいない。バビロンは欲しいままに、思いのままにしている。ハバククは神に激しい怒りをぶつけている。なぜあなたは省みてくださらないのか。憐れみを注いで下さらないのか。主の御業はどこにあるのだろうか?
ハバククは注意深く神からの応答を待ち望む。神はハバククに答えられた。バビロンの悪もまた神によって裁かされる。遅くなることはない。ハバククは祈りのなかで神からの答えを頂いた。 私たちも同じように信仰の中で神からの答えを頂かなければならない。それが私たちが喜びを持って生きる秘訣である。
ハバククは幻を見たがじつは状況はもっと悪くなる。悪化する方向に進んでいく。
しかし、ハバククは神に祈るのである。感謝を神の御前に捧げるのである。ハバククは祈りの中で教えられたのである。神と神の世界に問題があるのでなく、ハバククは自分の中に神の愛とご計画を理解していない自分がいたことに気づかされたのである。
私たちが主の幻のなかに生きられない、主を信頼して生きることができないのはあまりにも自分の理解に悟りに頼り過ぎているからである。過信しているのである。高慢だからである。
主の幻に生きるということは主の前に謙遜になって生きる、歩むということである。私たちの日常のなかで起こる一つ一つの出来事に主の幻を見ていく者とさせられるよう願い祈りたい。
2013年1月9日(水)祈り会メッセージ
霊的な人になる。
ゼカリヤ書4章6節 すると彼はわたしに言った、「ゼルバベル、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」
霊的な人とはどういう人であろうか?霊的というと警戒されることが多い、熱狂的、狂信的な人だとイメージするからであろう。
聖書は人のはじまりを創世記1章から2章にかけて語る。人は土の塵から神のかたちに形づくられた。ここに人の限界が示されている。私たちは知恵があり知識が増し、文明が進んだと豪語してもちりにすぎない弱い存在だということを知らなければならない。人は未だにちりにしかすぎないことを知らない。いつになったら知るのだろうか。
創世記2章7節には人は神の息によって生きる人となったとある。つまり聖書が語る霊的なということは神によって生きる存在であることを自ら知り謙虚になることである。人は霊的になればなるほど謙遜にさせられていくのである。神なしでは生きていくことができないことを知るようになるからだ。
霊的とは強くなることでなく、ますます神の前に、人との関係の中において謙遜にさせられていくことである。自分という小さな存在が神の息吹によって生かされ、人生の喜びをいただいている感謝なことである。またクリスチャンであるなら教会にある兄弟姉妹たちと共に歩み、祈りにおいて支えられていることを感謝したい。肉的な中にあるときに私たちは本当に感謝という感動を忘れてしまう者である。
私たちは肉的な中で歩まざるお得ない哀れな存在である。だが、可能な限り霊的な歩みをしていこう。私たちが肉的に歩むなら末路は滅びである。なぜなら一人で歩んでいるからだ。多くの人は神はいらないとか神はいるけど空気のような存在だと言っている人たちがいるが、これほど馬鹿で愚かなことはない。
私たち親子の関係、生まれてから親が空気のような存在だろうか?子どもは親のぬくもりを求めて泣いているではないか?それははっきりと父の存在、母の存在が必要だとわかっているからである。
「わたしは一人で生きてきた」と言っている人がいるが一人で生きることが人本来の宿命であるならそんなことはまったく言う必要はない。だって人が本来そのように生きるように定められているならなにもそのように生きればいいだけの話である。「わたしは一人で生きてきた」という言葉はそう生きざるお得なかった心の深いところでの傷みなのである。
私たちは霊的な存在である。尊い存在である。神の愛をはっきりと必要としているし、同時に人との関係でも愛を必要としている。預言者ゼカリヤをとおしてゼルバベルに語られた主の言葉、それは何を意味しているるのか。
「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」
これは一見、人間的なものに依り頼まず主にだけ依り頼めといように聞こえる。依然の私ならそう語るでしょう。しかし今は違う。これは主から人間への励まし、約束の言葉である。
バビロン捕囚から帰還したイスラエルの人たちにいったい何が残っていただろうか。廃墟と化したエルサレム、帰っても何も残っていない。そこには隆盛を誇ったイスラエル王国はない。英雄ダビデもいない。知恵者ソロモンもいない。すべてがなくなった。
リーダのゼルバベルは途方にくれただろう。いったいどうしたらいいのだろうか?そこに主は語る。「大丈夫だ。あなたにはダビデのような権勢もなければ、ソロモンのような能力もないが、わたしがいるのである。今こそあなたはわたしと共に生きるのだ、歩むのだ」と、
私たちの目の前には難問が山積みされている。途方にくれる。悩み恐れる。しかし私たちは進むことができる。主の霊によってすべての山は平らになるのである。2013年私たちは今こそ霊的な人なり主と共に歩みたい。そのとき知るだろう。あなたは一人で生きていく必要がないことを
2013年1月6日(日)主日礼拝メッセージ
『神のかたちに似せて造られた人間』 創世記1章26節~2章3節
秩序ある世界
聖書は神さまが天と地を創造されたと語ります。この世界にあるすべてのものは神さまによって創造されました。皆さんは信じられるでしょうか?この世界にあるすべてのものは偶然でなく目的をもって造られたのです。
ですから、すべてのものは神さまの目的に沿って命を与えられ生の営みをしています。ゴリラの世界でも秩序があります。本能にインプットされているのです。生まれたばかりの赤ちゃんゴリラは母ゴリラに育てられますが、大きくなると次第に母ゴリラから離れ群れの中で生きるようになります。誰からも教えられたわけでもないのに自然にそうなるのです。
ゴリラの世界でも本能に沿って生きているのに人間は違います。人間はいろいろと左右されます勤勉にもなれば怠けもします。心があるからです。人間には自分の意思で自分の人生を決めることができます。では心は偶然に生まれるものなのでしょうか。そうではありません。人間も神さまによって目的をもって創造されました。ではどのような目的を持って造られたのでしょうか。
①神さまの代理人としての使命を与えられた存在である。
創世記1章26・27節「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」
人間がどのように創造されたのか経緯が書かれています。創世記のはじめに天地創造の由来が書かれています。人間は最後に創造されました。人間が他の被造物と違うのは神さまのかたちに創造されたことです。
②神さまの祝福を受ける存在として造られた。
人間はただ神さまの代理としてこの世界を治めるだけの者として創造されたのではありません。神さまは人間が自分自身のために豊かに生きていくことを目的としていくために造られました。人間は神さまの祝福に応答できる存在なのです。
1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
③神さまの安息に入る者として造られた。
神さまは天地創造の業を完成された日の第7日目を聖なる日とされすべてのものが安息に入ることを守るようにと定められました。
2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。 2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
神さまからの安息はレクリエーション(再創造)と罪からの贖いと解放を受けるときです。神さまからの安息の祝福をうけるときこの世界は平安と喜びに満たされます。安息は日々の労働や営みを中断し、神さまの御前に静まり休まるときなのです。私たちは日曜日でもあれやこれやと忙しく過ごしています。せっかく神さまが与えて下さったレクリエーション(再創造)の恵みを落としてしまっているのです。 安息日はただ礼拝に行けばいい、守ればいいというものでなく、私たちが一週間の歩みのなかで受けた傷みや抱えている心の苦しみなど背負ってきた重荷を神さまの御前におろし平安を得るためのものです。私たちクリスチャンは今こそ安息日の意味を知り、神さまからの平安を頂こうではないでしょうか。
私たち人間はこのような素晴らしい神さまの御心において造られた存在なのです。神さまの目的のなかで歩まれ平安と祝福のなかを歩む者とさせられなければなりません。
クリスマス・イブ礼拝メッセージ 『同情ではない憐れみなのです』 ルカ2:8~10
きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである。 (ルカ2:11~12)
神が人なったことは何を意味しているか。それは神の愛がイエス・キリストという人として私たちのまえに表されたということである。
神が人として生まれ、喜び苦しみを私たちと同じように経験されたのである。そして死も受け入れられた。死は誰も逃れることのできないものである。しかし、救い主イエス・キリストは死から甦られた。私たちはこのお方にあって死さえも恐れることはないのである。
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