鮫バプテスト教会| JR八戸線 鮫駅からすぐの明るい教会です

八戸市鮫町の日本バプテスト連盟所属のキリスト教会です

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2013年5月5日(日)主日礼拝メッセージ 創世記21章8~20節 神は忘れない

2013-05-05

サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。(創世記21章9・10節) 

私たちは神様の恵みを頂いていながら恵みを忘れる愚かな存在である。恵みに感謝するということは自分が受けた恵みを他者に分け与えるということだ。サラはイサクという一人息子の誕生をとおして神様から恵みを頂いたがそのことを忘れてしまった。私たちもサラと同じように愚かな者であろう。あの3月11日の東日本大震災での世界中からの祈りと支援にどれほど私たちは感謝したであろうか。こうして毎週の礼拝に出席できることも然り、日常どれほどの恵みを神様から頂いていることか。そのいくらかでも感謝して他者に分かち合うことができたら、私たちの住んでいる世界はどんなにか豊かで素晴らしい世界になっているだろうか。恵みに感謝することができる者となれるように変えられていきたい。

神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。(創世記21章17節)

ハガルとイシマエルはアブラハムの家を出て行った。行き先のあてのない旅だった。3月11日以降、多くの人たちがハガルとイシマエルのように行き先の見つからない過酷な旅を強いられている。私たち一人ひとりも心の深いところにおいて行き先のない旅をして彷徨い苦しんでいる。

神様はハガルに語られた。「恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた」神様は泣き叫んでいる子どもの声を聞かれた。忘れてはいけない。神様は私たちの声も聞かれた。彷徨い苦しんでいる私たちの声を聞き、神のひとり子イエス・キリストを送って下さった。私たちはもう泣くことも、叫ぶこともしなくていい。なぜなら私たちの声を忘れないで聞いてくださるお方がいるのである。

2013年4月21日 主日礼拝メッセージ 

2013-04-23

「アブラハムの失敗」 創世記20章8~11節

 【口語訳】20:8 そこでアビメレクは朝早く起き、しもべたちをことごとく召し集めて、これらの事をみな語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。 20:9 そしてアビメレクはアブラハムを召して言った、「あなたはわれわれに何をするのですか。あなたに対してわたしがどんな罪を犯したために、あなたはわたしとわたしの国とに、大きな罪を負わせるのですか。あなたはしてはならぬことをわたしにしたのです」。 20:10 アビメレクはまたアブラハムに言った、「あなたはなんと思って、この事をしたのですか」。 20:11 アブラハムは言った、「この所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです。

アブラハムは住み慣れた場所を離れてゲラルの地へと旅立ちます。その場所はアブラハムが信じていた神様を知らない人たちが住んでいました。むしろ神様を恐れることがないとアブラハムは思っていました。それゆえに美しい妻サラを見たなら人々は私を殺すのではないかと恐れたアブラハムは自分を守るために妹であると嘘をつきます。アブラハムはいったい何を恐れていたのでしょうか?人間とはいったい究極的に何を恐るのでしょうか?究極的には死を恐るのだと思います。死とは単なる肉体の死でなく自分という存在が消滅してしまうことの恐れなのです。

どんな人でも最終的に死から逃れることはできません。早いか遅いか、短いか長いか、しかし、この地球の営みから見ればどんな人の歩みも存在もちりに等しいものです。誰も私たちのことなど覚えている人などどこにもいないのです。では私たちの存在は無意味なのでしょうか?そうではありません。この天地を創造され私たちに命を与えられた父なる神がおられます。アブラハムはこの御方を見ていなかったのです。私たちは現実を見ます。しかし現実の先には真実があります。真実を見ないならば現実に飲み込まれるしかないのです。私たちは現実の先にある真実を見ていきましょう。

 

2013年4月17日(水) 祈祷会メッセージ 詩篇124篇

2013-04-18

都に上る歌。ダビデの詩。】イスラエルよ、言え。「主がわたしたちの味方でなかったなら                  主がわたしたちの味方でなかったなら/わたしたちに逆らう者が立ったとき                         そのとき、わたしたちは生きながら/敵意の炎に呑み込まれていたであろう。                        そのとき、大水がわたしたちを押し流し/激流がわたしたちを越えて行ったであろう。                      そのとき、わたしたちを越えて行ったであろう/驕り高ぶる大水が。」                             主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。                                   仕掛けられた網から逃れる鳥のように/わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。                      わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。

 もし、私の人生に神がいなかったら~という出だしで始まっています。人生にもしということはないかもしれないのですが、この人は神がいなかったら人生の荒波の中でとっくに自分はダメになってしまったであろう。今、ここにいるのは神が私の味方(助け)となって下さったからだと告白し感謝と賛美を捧げているのです。

 神を信じる者には失望することがありません。なぜならすべてを失っても、あるいは私以外のまわりにいる人たちが敵となったとしても神が神を信じる(信頼する)者たちを守ってくださるからです。この詩篇はこのことを語っています。人を信じるのでなく神を信じるのです。どうかこのことを知って下さい。

 「就職失敗で自殺をする大学生が1000人を超えたらしい」という記事を見ました。今の大人たちは若者に生きる意味や仕事の意味など人が生きるうえで本当に必要なこと、大切なことを教えていません。自分たちは道徳や宗教など人生の先達たちが大切にしてきたことを教わってきたでしょう。だから今の日本があるのです。けれども今の大人たちは成長や民主化という名のもとにすべてを切り捨ててしまいました。この大きなつけをこれからの世代が負わなければならないのです。「そんなこと知ったことか」「今の若い者は覇気がない」「自分で這い上がってこい」などと無責任な言葉が多すぎます。人生で大切なことを若い者に教えていくのは大人の義務です。

 この詩篇は神と共に歩んだ年老いた信仰者が若い人たちにこれから新しい人生を歩み出す君たちに大切なことを教えたい。そんな意味においても読むことができます。「これからの人生君たちには多くの苦難が待ち受けているだろう。だが知ってほしい。どんなときにも神が君たちの味方であることを。どこに証拠があるかい。私だよ、私の人生が証拠だ。」私自身そう言える信仰者になりたいと願います。

2013年4月14日 主日礼拝メッセージ 神の国と義を求めよ

2013-04-16

「神の国と義とを求めよ」 マタイによる福音書6章33節

 【口語訳】マタ 6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

 私たち人間における人生の目標とは何であろうか?いきなりそんなこと言われてもわからない、そう返答する人は少なくないと思います。人生に夢や目標があれば私たちの人生は生き生きとしたものになるでしょう。かと言って現代は夢や目標を持つことが難しい時代です。聖書はこの世は虚しいとも語ります。もしかすればこの世に夢や目標を求めること自体が虚しいことなのかもしれません。

 私たち人間はいつも時代の流れに翻弄されて生きています。しかし、クリスチャンはそうではありません。時代が変わっても状況が変わってもクリスチャンの生き方はぶれないのです。なぜならクリスチャンには神様からはっきりとした目標が与えられているからです。クリスチャンはこのために歩み、神様の目的に向かって進んでいます。

神様がクリスチャンである私たちに与える新しい生き方とは、マタイ6章33節の聖書のみ言葉です。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

クリスチャンは人生において何よりも神の国と神の義を求めることに優先順位をつけなければなりません。人生の豊かさを私たちは体験できるのです。では神様が私たちに与えて下さった目標である神の国と神の義とは何でしょうか?

 第一に神の国と神の義とは神様に求めるものである。

 イエス様は弟子たちや集まってきた人々に向かって「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われました。イエス様は求めなさいと言われたのであり、あなたがたが何かを行いなさいとか聖くなりなさいとかということは一切いわれませんでした。神の国と神の義は神様からいただくもので、私たちにはないのです。ですから神様にただくださいと言ってお願いするしかないのです。しかし、クリスチャンたちは神の国と神の義をつくりだそうと必死に努力しています。その結果徒労に終わり神様に失望するのです。私たちは神の国と義とを求めることから始めなければなりません。

  6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

異邦人(神様を信じない人たち)は生活のことを心配して必死になって求めているがあなたたちは、まず最初に神様の求めることを追求しなさい。と言っているのです。イエス様が「求めなさい」と言われた言葉には追求するという意味を表します。私たちクリスチャンは人生において何をまず最初に追及するべきでしょうか。間違ったものを追求すれば不幸になります。クリスチャンとして正しいものを追求する人生を歩むことができるように神様に祈り求めましょう。

 第二に神の国とは神様が治めておられる所です。

 イエス様は言われました。「神の国を求めなさい」神の国を追求しなさい。ということです。神の国とは何でしょうか?神様が全き支配し治められている国です。私たちの心・生活・人生が神様にまったき治められなければなりません。

 私たちの人生は何に、誰に支配し治められているでしょうか。よく考えなければなりません。お酒やギャンブルに心が支配されている人はお酒やギャンブルで生活が100パーセントです。趣味や仕事どちらでもよいでしょう。そのどちらか一つでもあなたの心が支配されているならあなたの人生は100パーセン、趣味・仕事に支配されているのです。それがなくなるとあなたの人性は不安になります。なぜならあなたの人生がすべてそこにあるからです。

 マタ  6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。

  神様はあなたに問われます。あなたが大切にしているものはあなたを本当に生かして救うのか?と私たちは依り頼んでいるものが私を救ってくれるものなのか、いま一度問いかけてみるべきではないでしょうか? 私たちは心に平安を持ちたいと願いながらも持つことが叶いません。それは自分で自分の人生を造りだそうと必死になっているからではないでしょうか?イエス様はそのような人をこのように言い表しています。

  マタ 6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

 自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらっている人、そういう人は人生のあらゆるところで思いわずらい平安がないのです。「思いわずらう」は分裂した心、引き裂かれた心の状態です。いつも何かを恐れ心が定まらず不安定な状態です。現代に生きる私たちは思いわずらいにふりまわされて生きているのです。どうすればこの不安、恐れから解放され自由になるのでしょうか?

 イエス様は言われます。神の国を求めなさい。神の国の国民となりなさい。イエス様は福音を語るにあたって「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」イエス様は神の国はもうすでにあなたがたのすぐ傍に近づいた。神の国へ来なさいと招いておられます。イエス様は神の国へ入るようにあなたを招いているのです。父なる神様は私たちをご自分の国へと招いて下さるのです。あなたが暮らしたいと願っている場所はどこでしょうか?平安を得たいと願うなら神の国を求めて下さい。

 第三に神の国に入るならば神の義を受けなければいけない。

 この世でも国に入国するときに手続きが必要なように神の国に入るにも手続きが必要です。神の義を受ける必要があるのです。神の義とは何でしょうか?神様にあなたは義だと宣言されることです。神様は義なる方です。神の国は義なる人だけが入ることができます。

 義だと宣言されることは神様があなたは罪のない者だと認めて下さることです。私たちが義と認められる唯一の道は主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて神様の御許に行くことだけなのです。神の国に入るには主イエス・キリストを通してしか入ることしか道はないのです。イエス・キリストは無条件に私たちを引き受けて下さいます。条件は私たちがイエス・キリストを信頼するだけです。

 イエス様が私たちを引き受けて下さることで私たちも神の国と神の義が与えられることを忘れてはいけない。私たちにはすでに主イエス。キリストをとおして神の国と義が与えられている。今年私たちは神の国と義とを熱心に求めてまいりましょう。

2013年4月10日(水) 祈祷会メッセージ 詩篇123篇

2013-04-12

祈りとは何でしょうか?私たちは願いを叶えてもらうために神様という名のつく存在に祈ります。自分の願いが叶えばすばらしい神様だとますます祈り、まあ返答がなければ忘れてしまう存在ではないでしょうか?

詩篇の中で祈りささげている神様は一般で思われているような神様とは違います。詩篇の中で祈りささげる人たちは願いが叶えられることを求めているのでなく神様御自身を求めているからです。彼らにとって神様に祈ることは神様を知り、神様から慰められることでした。人間には求めることのできない永遠の交わりを神様に見出したからです。彼らは苦難と悲しみの中で神様を見出しました。その神様との交わりは彼らに本当の慰めと癒しを与えたのです。

主よ、われらをあわれんでください。われらをあわれんでください。われらに侮りが満ちあふれています。(詩篇123:3)

人々の嘲りと辱めの中で本当に慰めを与えることができたのは神様だけでした。彼らはまことの神様を見出したのです。最近「スーパーナチュラル」というアメリカのドラマにはまっています。そのドラマでは牧師が病人を癒すという奇跡の業を行います。一見神様の奇跡のように見えますが、実は牧師の奥さんが死神と取引して癒す人と引きかえに別の人を変わりに死なせて癒しているように見せていたのです。

私たちの願いも何らこの奥さんと変わらないように思えてならないのです。自分の願いと引き換えに他の人を犠牲にする。本当の祈りとは何であるのかクリスチャンは今一度詩篇をとおして自ら問いかけることが必要ではないでしょうか。

 

2013年4月7日 主日礼拝メッセージ

2013-04-09

「聖霊を受けよ」 ヨハネによる福音書20章19~29節

 20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。 20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。 20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。 20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 20:26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 20:27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

聖霊を受けよとイエス様は言われた。弟子たちはイエス様が捕らえられたとき恐れて逃げた。しかしペンテコステで聖霊を受けて以来イエス様の復活を力強く証しする者となっていった。聖霊は私たちクリスチャンの歩みに必要不可欠である。

 聖霊をわかりやすく言えば神との交わりと言えるであろう。私たちはこの世で様々な影響を受けている。人格形成や考え方などどれひとつとっても人から、世の文化、考えから影響を受けている。目に見えないが私たちの人生に確実に影響を与えている。良き影響もあれば、悪い影響もある。イエス様から与えて下さる聖霊とは私たちの人生にどんな素晴らしい影響を与えて下さるのか?

 ①この世にはない平安を与えて下さる。

 イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。

イエス様の弟子たちへの挨拶は「安かれ」ヘブライ語でシャローム、まったき平和、神の平和があなたにありますように。というイスラエルの中で通常使われてきた挨拶である。当時の人たちは、中近東では挨拶として神の祝福があるようにとか神の平和があるようにとか、お互いを祝福しあっていた。それはこの世界が平和でないことの証拠である。 いくらお互いに「シャローム」と祝福しあっても人間では本当の平和、平安を与えることはできない。なぜなら人は罪ある存在だからである。真の愛である神様から離れるなら平和を持つことは出来ないのである。

 自己暗示や潜在意識に働きかける。イメージトレーニングなど自分を強くすることが流行っているようだが、本当に続く平和は私たちにつくリ出すことはできないのである。本当の平和は永遠の方である神様から来るのである。 イエス様の「安かれ」はまことの平和を与える言葉である。死を打ち破って来られた方の言葉を聞いて私たちは進むのです。生きた神様の言葉を聞いていこう。

②イエス様の復活の証人として下さる。

「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。

 聖霊を受けることは復活の証人として生きることである。教会はイエス様の復活の証人の集まりである。ただ見たことを話しするだけでは復活の証人ではない。復活の力強い命を経験してこそ、イエス様の復活の証人となるのである。クリスチャンとして生きることは真面目に生きることではない。何なにすることでない。生かされるのである。生かされることに感謝することである。イエス・キリストが私たちを生かして下さるからクリスチャン生活は楽である。平安である。

 ③神様に赦されたことの証である。

20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。 20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

 あなたが偉いんじゃない。あなたが神様に赦されたことの証である。イエス様と同じくクリスチャンは人々のためにとりなしの祈りを捧げることができる。またそうしなければいけない。ことを教えてくれる。私たちが神様に赦されたのは、罪の中に苦しんでいる人が神様の救いを受けるために祈るためである。私たちは神様の御心を知るなら祈らずにはいられなくなる。聖霊は神様の御心を悟らせて下さる。

新しい年度、神様より新しい力を頂いて歩んでいこう。

 

2013年4月3日(水)祈祷会 メッセージ 詩篇122

2013-04-04

詩篇122篇 ダビデがよんだ都もうでの歌
人々がわたしにむかって「われらは主の家に行こう」と言ったとき、わたしは喜んだ。 122:1

ダビデがエルサレム巡礼に歌った祈りと感謝と賛美の詩篇です。ダビデは主の家(神殿)に人々が行こうと叫んだ時、何よりも喜びました。ダビデにとって神様にお会いすることはなにも増して大きな喜びだったのです。なぜならダビデは神様から慰めと恵みをいただきました。ダビデはまわりの人々から裏切られ命を狙われました。誹謗中傷を受けました。人を頼みとできないダビデが唯一頼ることができたのが神様だったのです。

エルサレムより遠く離れた土地から多くの人たちが神様を礼拝しにやってきました。礼拝とは英語で service(サービス)といいます。サービスと聞くとなぜ?私たちが神様にサービスをしなければいけないのと思うかもしれません。反対に神様が私たち人間にサービスをすることを求めます。しかし、人間は欲の塊です。受ければ受けるほどもっと欲しくなり、限りない欲望のなかで人間は苦しむのです。救いがないのです。

反対に神様は私たちにまわりに目を向けてごらん。自分を捨ててごらん。と呼びかけます。いかがでしょうか?一旦自分を捨てて神様にささげてみてはいかがでしょうか?人々のために生きることへと方向転換することはできないでしょうか?先日某テレビで世界一のサービスマンと評された方の仕事を見ました。100%の満足は実現できて当たり前、100%以上の満足を追求していくことがサービスマンにとってもっとも大切だと、この方は言っておられました。どうしてそのようなことができるのか。お客さまから「ありがとう」と言われる一言がなによりの喜びだと言っていました。クリスチャンは求めることが多いです。でも本当の喜びは私たちが身を削って与えることで得られものが多いのだとクリスチャンでない方から教えれた、反省させられる出来事でした。いつか私もサービスマンの方のように、真のサービスマンとなりたいと祈り願います。

牧師 林健一 

 

2013年3月31日 イースター礼拝 メッセージ

2013-04-02

「人生をやりなおすのでなく」 ヨハネによる福音書20章19~29節

 【口語訳】20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。 20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。 20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。 20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 20:26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 20:27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

  人生をやりなおすことができたらと思うことはないでしょうか?あの時こうしていれば、違う道を選んでいたらと今の自分を見ておもうことがあるのではないでしょうか。

 しかし、逆に考えてみれば今、生きているからこそ、そのように考える自分がいるので大切なことは人生をふりかえることでなく、この先もうどうにでもなれと悲観的になるのでもない、今を生きることができるいのちを与えられていることに感謝することです。ではこのいのちはどこから来ているのでしょうか?私たちは自分で生きて自分で死んでいくような錯覚を持ちます。生まれてくるのも死ぬのも私たちの意志ではどうすることもできないことです。いったいどこからこのような素晴らしいいのちが来ているのでしょうか。

 今日はイースターです。死よりよみがえられたイエス・キリストを喜び祝う日です。イエス様がよみがえられた日の朝、弟子たちはユダヤ人を恐れて、鍵をかけて息を押し殺しながらじっと閉じこもっていました。弟子たちの真ん中に立たれたイエス様は「安かれ」「あなたがたに平和があるように」と復活した体を弟子たちに見せます。そのとき弟子たちは驚き知るのです。私たちの主はただ生き返ったのではない、新しいいのちに生かされて今、私たちの間に立たれておられるのだと。では私たちの主イエス・キリストが示された新しいいのちとはどんないのちでしょうか?

 死を打ち破るいのちである。

 20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

  弟子たちはイエス様が十字架で処刑されたあと、ユダヤ人たちを恐れて家の中に鍵をかけて閉じこもっていました。どうしてでしょうか?イエス様の弟子である自分たちも同じように十字架につけられて殺されるのではないか?あるいは当時ユダヤ人たちの間で慣習となっていた石打の刑になるのではないかと思ったからです。

 どちらにせよ、肉体の苦しみ、精神の苦しみの中でいのちを失うことに恐れを抱いたからです。私たちがこの世の中の様々なことを恐れるのは自分を守るためです。肉体が痛みを感じるのはいのちを失わないように守るためです。私たちはこの世界で生きていくために自分に危険を与えるものから身を守るために恐れを感じていくのです。

 そう考えると人生とは恐ろしいことばかりです。でも、どんなに身を守っても死は私たちを襲ってきます。どんなに死から逃れたいとあれこれしても確実に死は私たちにやってきます。頭のいい人だろうが、生まれてから病気をしたことのない人であっても死は誰にでもやってきます。

  死を迎えるのをただ待つだけの人生なんて哀れではないでしょうか。イエス様はそのような死を打ち破ってよみがえり、弟子たちのもとへ来られたのです。死を恐れていた弟子たちはイエス様がよみがえられた姿を見て知りました。このお方こそ真の神であり、死を打ち破ってよみがえられたお方だと。私たちの主イエス様はただ死を打ち破ったのでなく、死ぬことのない永遠のいのちを持った方として弟子たちの前に立たれました。イエス様は約束して下さいました。私を信じる者は決して死ぬことなく永遠のいのちを持つのだと、ですからイエス様を信じるなら死を恐れることなく永遠のいのちを持って生きることができるのです。

 イースターをお祝いするのはイエス様の復活をお祝いすることと同時にイエス様を信じる私たちにも同じようにイエス様が持っている神さまからの新しいいのちをいただいていることを感謝してお祝いすることなのです。

私たちを新しく生かす命である。

 20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 20:26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 20:27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

  復活の日の朝、トマスだけがいなかった。後から仲間の弟子たちからイエス様の復活のことを聞いたトマスは手に釘あとを見、自分の指をその釘あとにさし入れ、手をわきにさし入れてみなければ決して信じないと言います。ここから疑い深いトマスと呼び名されるようになったわけですが、トマスはただ信じないと言い張ったのではないように思います。

 トマスはあの十字架で死なれたイエス様がそうやすやす復活するはずがないと思ったのです。それはイエス様を大切に思っていたからではないでしょうか?イエス様と共に歩んだ3年半はトマスにとってとても大切な時間でした。その時間がイエス様の死によってなくなってしまった。失ったものに対する深い思いは誰にでもあるのではないでしょうか。トマスは失ったものが戻ってくることはないと思ったのです。当然、それは誰もが思うことです。

  イエス様はトマスのまえにあらわれました。イエス様とトマスの間に新しい人生が始まったのです。中断されたと諦めていたトマスのまえにイエス様はあらわれてこう言われました。「見ないで信じる者は幸いである。」とイエス様はトマスが新しい命に生きることを望まれたのです。復活とはイエス様のよみがえりを信じるだけ十分ではありません。イエス様を死からよみがえらせされた神様の命に生かされることを信じることなのです。信じる者にはイエス様を死からよみがえられせた新しい命が与えられるのです。イースターは私たちが新しい命に生かされることを喜ぶことなのです。

3月6日(水)祈り会メッセージ 「選びました」詩篇119篇169~176節

2013-03-07

「わたしはあなたのさとしを選びました」(119編173節)

詩人は祈りにおいて神様が語られた言葉(律法、戒め)を選ぶと決断した。私たちは人生において何を選ぶか、重要である。自分にとって都合のよいほうを選び取るのが賢い選択だと豪語している人たちがいる。それは大きな間違いである。人生は肉体における人生だけでない。神様の前に立ち裁かれるときをすべての人はむかえるのだ。

神様や他者のことを省みずに自分だけのための人生を選ぶことで本当にあなたは幸せな人生をおくれるのか。家族が、他者の幸福を思い、共に生きることこそ本当の幸せな人生がある。

2月8日(金)女性会例会 世の光2月信教の自由を覚えて祈る

2013-02-08

彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。(マタイ22:11)

2月11日は「信教の自由を覚える日」として信教の自由についてキリスト教会は大切にしてきた。私たちは信じることの自由について考えてみたい。よく私たちはこう思う。神さまを信じることに多くの誘惑、妨げがある。これさえなければいい教会生活ができるのに、もっと変われるだろうに。なぜ神さまは私たちのまえに多くの誘惑を置いたままにしておくのだろう。

では、私たちのまえからそのような誘惑が取り除かれたら神さまを信じ続けることが保証されるのだろうか?そうでないことを私たちは知らなければならない。いいものであってもやがて私たちを神さまから引き離す誘惑や妨げになることがあるのだ。

私たちは心地よいもの、満足させるものに心惹かれるのだ。だから日常においても流行がある。便利なものがあればすぐ飛びつく。神さまを信じ続けることは喜びと試練の連続である。神さまは私たちに選択する信仰の自由を与えてくださっているのだ。神さまは私たちを信じている。私たちが信じる以上に神さまは私たちを愛し信頼しているのだ。神さまを信じることは信頼と真実を神さまとの間に築き上げること。そのことを覚え信じる自由と喜びを神さまから与えられていることを感謝する日として覚えたいのである。信教の自由とは、これがなければと外のせいにすることなく自分自身と神さまとの関係を問い直すことでないだろか。イエス様は「あなたにとって神とは」と問いかけている。信仰者であるということはどういうことなのか問いかけていきたい。

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〒031-0841
青森県八戸市鮫町字忍町30
電話 0178-33-2303
牧師 林 健一