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8月24日 主日礼拝 創世記42章29~38節 「蒔いたものを刈り取る人生」
この世界は因果応報の世界である。と私たちは人生を捉える。善をすれば善が、悪をなせば悪がその人に返ってくると、だが現実はそうでないことに私たちは矛盾を感じている。なぜ、正直な人が騙されなければいけないのか、悪人が我が物顔でのさばっているのか。あらゆることに憤りを感じ、抵抗する人や刹那的に「どうせ、騙されるなら騙してやれ」というようにやられるまえにこちらからやるという生き方、これが私たちの住んでいる世界だ。
聖書は語る。この世は暗闇、悪が支配している世界、神様の愛を否定した世界。だから救いが必要なのだ。私たち人間がこの世界をよくできるのだと思っていることに決定的な過ちがあるのだ。なお私は正しいと。その心が神を十字架につけてしまったのだ。私たちは自分たちの蒔いたものによって、悪、憎しみ、妬み、敵意、悲しみなど人生のなかでいやというほど刈り取ってきた。
もうたくさんではないのか?と神様は私たちに語りかけてくださる。私たちの主イエス・キリストがこの世の苦しみ、矛盾をすべて刈り取ってくださった。私たちが今人生で刈り取るものはなにか?それは神様が私たちのために流してくださった涙、愛を刈り取るのだ。
8月17日(日)主日礼拝 創世記42章21~28節
8月10日主日礼拝 「和解と平和へ向かう道」 創世記42章9~20節
42:9 ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った、「あなたがたは回し者で、この国のすきをうかがうためにきたのです」。
42:10 彼らはヨセフに答えた、「いいえ、わが主よ、しもべらはただ食糧を買うためにきたのです。
42:11 われわれは皆、ひとりの人の子で、真実な者です。しもべらは回し者ではありません」。
42:12 ヨセフは彼らに言った、「いや、あなたがたはこの国のすきをうかがうためにきたのです」。
42:13 彼らは言った、「しもべらは十二人兄弟で、カナンの地にいるひとりの人の子です。末の弟は今、父と一緒にいますが、他のひとりはいなくなりました」。
42:14 ヨセフは彼らに言った、「わたしが言ったとおり、あなたがたは回し者です。
42:15 あなたがたをこうしてためしてみよう。パロのいのちにかけて誓います。末の弟がここにこなければ、あなたがたはここを出ることはできません。
42:16 あなたがたのひとりをやって弟を連れてこさせなさい。それまであなたがたをつないでおいて、あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言葉をためしてみよう。パロのいのちにかけて誓います。あなたがたは確かに回し者です」。
42:17 ヨセフは彼らをみな一緒に三日の間、監禁所に入れた。
42:18 三日目にヨセフは彼らに言った、「こうすればあなたがたは助かるでしょう。わたしは神を恐れます。
42:19 もしあなたがたが真実な者なら、兄弟のひとりをあなたがたのいる監禁所に残し、あなたがたは穀物を携えて行って、家族の飢えを救いなさい。
42:20 そして末の弟をわたしのもとに連れてきなさい。そうすればあなたがたの言葉のほんとうであることがわかって、死を免れるでしょう」。彼らはそのようにした。
私たちは平和を願うが、日常の人間関係において平和をつくることがどれほどむずかしいかをよく知っている。私たちは平和を願いながらもなぜお互いに憎み合う関係になってしまうのだろう。
それはゆるすことができないからだ。なぜゆるすことができないのか?それは神様のゆるしを受けていることを知らないからだ。私たちのためにゆるしを与えてくださる神様の愛を知ることなしに私たちはゆるすことができない。
礼拝メッセージ 「夢は必ず成し遂げられます」
聖書:創世記42章1~8節
42:1 ヤコブはエジプトに穀物があると知って、むすこたちに言った、「あなたがたはなぜ顔を見合わせているのですか」。
42:2 また言った、「エジプトに穀物があるということだが、あなたがたはそこへ下って行って、そこから、われわれのため穀物を買ってきなさい。そうすれば、われわれは生きながらえて、死を免れるであろう」。
42:3 そこでヨセフの十人の兄弟は穀物を買うためにエジプトへ下った。
42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちと一緒にやらなかった。彼が災に会うのを恐れたからである。
42:5 こうしてイスラエルの子らは穀物を買おうと人々に交じってやってきた。カナンの地にききんがあったからである。
42:6 ときにヨセフは国のつかさであって、国のすべての民に穀物を売ることをしていた。ヨセフの兄弟たちはきて、地にひれ伏し、彼を拝した。
42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それと知ったが、彼らに向かっては知らぬ者のようにし、荒々しく語った。すなわち彼らに言った、「あなたがたはどこからきたのか」。彼らは答えた、「食糧を買うためにカナンの地からきました」。
42:8 ヨセフは、兄弟たちであるのを知っていたが、彼らはヨセフとは知らなかった。
創世記42章に入りました。ヨセフが見た夢が一歩ずつ実現へとむかっていきます。振り返ればアブラハム、イサク、ヤコブも夢を見て、夢に向かって生きた人でした。聖書は神様を信じる人、神様に出会う人は夢を見るのだと言っています。神様が夢を与えて下さるのです。神様が与える夢はどのような夢でしょうか?人間は自己目的の達成のために夢を持ちます。しかし、神様の夢は人の持つ夢とまったく違うものであることを聖書は私たちに語るのです。
カナンの地もききんが激しくなり、生活ができなくなります。そのためヤコブは、息子たちをエジプトに送って穀物を買って来させます。
ヤコブはただ顔を見合わせている息子たちに向かって次のように言いました。
42:2 また言った、「エジプトに穀物があるということだが、あなたがたはそこへ下って行って、そこから、われわれのため穀物を買ってきなさい。そうすれば、われわれは生きながらえて、死を免れるであろう」。
ヤコブが息子たちに言った「そうすれば、われわれは生きながらえて、死を免れるであろう」。という言葉に神様のヤコブとヨセフの兄弟たちに対する摂理を感じずにはいられません。
こうしてヨセフと兄弟たちは、20年の歳月を経て再会します。ここでは、ヨセフと兄弟たちの地位と身分、そして関係についてしっかりと描写されています。ヨセフはエジプトの宰相となり、彼の兄弟たちは彼のところに食料を買いに来た数多くの人々のうちのごく一部でした。かつて兄弟たちはヨセフを思いのままにしましたが、今はヨセフに食料を求めに来る立場になったのです。彼らは当然のようにヨセフの前に伏し拝みました。そんな彼らをヨセフはどんな思いで見ていたのでしょうか。
「かつて見た夢のとおりに、今兄たちが弟の私を伏し拝んでいる。二十年以上も前の夢の中ではっきりと見た光景が、今目の前で現実となっている。二十年の歳月の流れの中で、自分がエジプトに流され、エジプトの国の支配者となり、そうして大ききんが起こって…」。人間世界に起こるあらゆる営みを飲み込んだ形で、大きく神様の定められたゴールに向かって進みゆく不思議な導きの力に、ひとりヨセフはこのとき、感動していたのではないかと思われます。
そして、かつて神様が見せてくださった夢の意味に気づかされたのではないでしょうか。夢を見たばかりに兄弟たちから憎まれ、波乱万丈の少年、青年期を過ごしたヨセフでした。もしかすれば夢を憎んだかもしれません。しかし、兄弟たちを前にしてヨセフは神様が見せてくださった夢は家族の救いのため、この時のためだったのか、と胸にあつくせまるものを感じていたことでしょう。
思えば、アブラハム、イサク、ヤコブが見た神様の夢もそこにつながっていくのです。ヨセフはまだわかりませんが、後にヤコブと家族の救い、そしてイスラエル民族の救い、そしてイエス・キリストによる全世界の救いにつながっていくのです。神様が見せた夢は私たちの世界の救いのためなのです。神様の夢は自己目的達成のためでなく、この世界、私たちの世界の救いのためです。
私たちもヨセフのように神様の夢を受け止め理解したいものです。かつてヤコブが暮らしていたカナンの地は神様の夢でなく人間たちのエゴにまみれた夢のために多くの人たちの尊い命が今も犠牲になっています。
イスラエル軍が、今月の17日にガザ地区に侵攻してから約1週間がたち、イスラエルとガザとの境界線近くの市街地では、いまも、激しい戦闘が続いています。ガザ地区では、一連の戦闘が始まってからの犠牲者は815人になり、その大半が女性や子どもたちを含んだ一般市民です。
このような悲惨なことがどうして起こるのか?神様のためにといいながら殺戮を繰り返している。これは本当の神様の夢を知ろうとしないからではないでしょうか?己の願望を神様の夢に言い訳して自分たちの願望を達成しようとしているからなのです。
神様の夢は他者が幸せに生きることです。これが神様の喜びであり、私たちもまた神様の夢に生きるときに真の幸せを得ることができるのです。私のまわりが喜びに満たされるなら私も喜びに満たされるのです。
最後に「面倒だから、しよう」という本の中にある渡辺和子さんの私の選んだ生き方を読んで終わりにします。
「お前は、あまりにも現実的に物事を考えすぎて、夢がない」
私は若い時から、六歳上の兄によくいわれていました。
今、自分の生涯を振り返ってみて、たしかに私は夢を持つことなく、生きてきたように思います。それは、父も母も努力の人たちだったことに影響されたのかもしれません。一度も「夢を持て」といわれたことなく、ひたすら目標に向かって、「今」を確実に生きることを教えられて育ちました。
十代後半は戦争の中で過ごした日々でした。もしその時の私に夢があったとしたら、お腹いっぱいご飯を食べること、空襲警報が鳴るたびに防空壕に逃げこむことなく、夜ぐっすり眠ることぐらいだったかもしれません。
戦争に負けて、旧軍人の家は、恩給、扶助料の支給も廃止となり、経済的に苦しい生活を強いられました。その中で、医学部に進学した兄と私自身の学費をまかない、家族の生活費を稼ぐ唯一の人間として、私の二十代前半は、アルバイトと学業の両立に苦心する、夢のない生活でした。
大学卒業後、キャリアウーマンとして過ごした二十代後半も、夢を持つゆとりのない日々でした。でも、私は幸せでした。封を切らずに給料を渡した時の母の喜ぶ顔、職場での日々のチャレンジ、それらは充実した日々でした。三十代間際での修道会入会。私は、夢を持つことと無縁の生活を選んだのでした。
夢を持って生きることもすばらしいです。修道生活では夢でなく、神との一致を目標とする求道の日々が用意されていました。修道者となった私に許される夢は、いつの日か、主イエスのみもとに呼ばれ、そこで永遠のいのちを生きるということだと思っています。
お祈りします。
11月27日(水)祈祷会メッセージ 詩篇149編より 主の誉れを賛美せよ
私たちはどうすれば神さまを心から賛美できるのか今日の詩篇から一緒に聞き、神さまからの豊かな祝福と恵みを受けましょう。
①新しい歌を主に向かって歌う。
149:1 主をほめたたえよ。主にむかって新しい歌をうたえ。聖徒のつどいで、主の誉を歌え。
私たちが新しい歌を造って主に歌うのではありません。私たちは神さまによって新しくされるのです。イエス・キリストを信じるならあなたには新しい人生が待っています。
②毎日、私たちは新しくされていきます。
149:6 そののどには神をあがめる歌があり、その手にはもろ刃のつるぎがある。
聖書は神さまの言葉です。私たちが聖書をただ毎日読むだけでなく神さまが私に語ると信じて読むならあなたの心は新しくされます。私たちは日々、さまざまな考えや思いに支配されています。朝に夕に神さまの言葉によって心を新しくされていきましょう。
③あなたの新しい人生は永遠に続くのです。
149:9 しるされたさばきを彼らに行うためである。これはそのすべての聖徒に与えられる誉である。主をほめたたえよ。
詩篇149編は終末を待ち望む祈りとも言われています。終末とはこの世が終わってしまうような恐ろしいものでなく、新しいことが待っている。用意されている。わくわくするものです。神さまがあなたに永遠に続く新しい人生を用意されています。今こうだからと諦めることはありません。イエス・キリストを信じる時にあなたには新しい人生が用意されているのです。それは永遠に続くのです。
2013年8月25日 主日礼拝メッセージ 創世記27章24~34節 神の眼差し
27:24 イサクは言った、「あなたは確かにわが子エサウですか」。彼は言った、「そうです」。
イサクの息子ヤコブは兄エサウになりすまし、父をだまして神からの祝福を受けます。神はなぜヤコブの行為を許されたのでしょうか?一見許されたように思いますがそうではありません。神はヤコブの行為を見逃しはしませんでした。後にヤコブは自ら蒔いた行為を刈り取ることになります。それでヤコブの犯した罪が帳消しになることはありません。どんなに私たちが償いをしたと思っても罪は消えることはないのです。そこに神の赦しを求め、罪の贖いが必要になるのです。イエス・キリストは私たちの罪の罰を受けるために十字架にかかられました。イエス・キリストを信じることに私たちの救いがあります。
私たちの人生は罪を犯し、取り返しのつかない過ちに苦しむことの繰り返しです。地方都市に住む若年層の違法就労が増えている実態があるそうです。彼らは独自のネットワークを持ち、違法だと分かりながら年齢を偽って夜の接客業や危険な仕事をして生活の糧を稼がざるお得ない状況に追い込まれている背景があります。
若年層を取り巻いている社会状況は厳しい現実です。ワーキングプア、見通しが立てない生活設計など彼らの努力だけではどうにもならない問題があります。私たち一人ひとりの中にどうすることのできない問題で罪を犯す現実があることを知らなければなりません。若年層の実態を調査している方がこの問題について次のように語っていました。「彼らのことを自己責任で解決しなさいということは簡単だ。だがどういう眼差しで彼らを見るべきなのか。社会に突きつけられている」
私たちは罪を犯している人たちを簡単にこうだと決めるが、神ご自身の眼差しはどう見ているのか。それは私自身に向けられている神の眼差しを知ることになるのです。私たち一人ひとりの行いに神の眼差しが向けられていることを忘れてはならないでしょう。同時に罪から悔い改めることを求めておられます。神は見捨てることなく私たちを生かす道へ導くお方なのです。
2013年8月11日平和主日礼拝 創世記26章23~35節「礼拝の場で結んだ平和の契約」
その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。(創世記26章24節)
本日は平和主日礼拝である。私たちは平和を祈っているがすべての人が平和を願っているとは限らない。暴力をもって自分たちの欲望を達成しようとする人たちがいる。彼らは大義名分をもって人々を暴力で支配しようとするが、結局は自分たちの欲望を満足させたいがために暴力を実行しているのである。私たちのまわりにもそのような人たちがいる。「いじめられるほうが悪い」「いじめらるようなことをするからダメなんだ」「お前の態度が悪い」などと、いう人たちに対して私たちはどう向き合ったらいいのだろうか?同じように暴力で向き合うのか、我慢するしかないのか
そのような私たちに神様は「恐れるな」と約束の言葉を与えてくださる。私たちの人生には恐れる出来事、人々が常にいる。だが神様は「恐れるな」と言われる。私と共に歩むならあなたはまっすぐ進むことができるだろうと約束して下さる。私たちは恐れてはいけない。主の約束の言葉を握ってまっすく進んでいこうではないか。
8月4日主日礼拝メッセージ 創世記26章15~22節 「尽きない主の祝福」
◆井戸をめぐる争い
26:15 ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。 26:16 アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」
イサクと一族たちはゲラルの地にしばらく留まった。主がイサクを祝福し彼と彼の収穫、家畜を祝福した。それに対しイサクの力が強くなるのを恐れたアビメレクとペリシテ人たちは彼らに立ち退くことを要求する。教会は自分たちだけ主に祝福されればいいと考えてはならない。イサクはこの出来事をとおして主の祝福とは何であるのかを思い巡らしたことであろう。主の祝福とは一人が独占するのものでなくすべての人に注がれるものであることを私たちは知らなければならない。厚労相が「ブラック企業」の対策強化に乗り出したが、教会も神の祝福を受けようといいつつ無理な信仰の押し付けがないか神さまに祈り聞く必要があるのではないか。
26:19 イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、 26:20 ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。 26:21 イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。 26:22 イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。
一方的に出て行くことを要求されたイサクは争うことなく、神さまの導きのなかで新しい場所をさがしに行く。 イサクたちはやっとのことで井戸を掘るが、ことごとくペリシテ人たちに奪われた。それでもイサクたちは諦めることなく、争うことなく、主が用意された場所に導かれるのである。神さまの恵みを知る者にこそ尽きない祝福があることをイサクの生き方から私たちは教えられる。神さまを知らないがゆえに私たちは自分の権利を拡大し、 他者から奪い取ろうとするのだ。神さまの恵みを知る私たちは尽きない主の祝福があることを知るのである。
7月28日 主日礼拝メッセージ 創世記26章1~11節 「私たちは赦される存在」
アブラハムの時にあった初めのききんのほか、またききんがその国にあったので、イサクはゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った。(創世記26章1節)
イサクとその家族は飢饉にあったため、ゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った。そこでイサクはとんでもない過ちを犯すのである。
その所の人々が彼の妻のことを尋ねたとき、「彼女はわたしの妹です」と彼は言った。リベカは美しかったので、その所の人々がリベカのゆえに自分を殺すかもしれないと思って、「わたしの妻です」と言うのを恐れたからである。(創世記26章7節)
イサクは妻リベカの美しさが自分に禍いをもたらすのではないかと恐れ、妹だと偽ったのである。イサクはなんとひどいやつだと思われかもしれない。しかし、よくよく私たちも振り返ってみればイサクと同じことをしているのではないだろうか?自分の命を守るために、誰かを犠牲にすることがあるのではないか。自分の豊かな生活のために私たちは知らないところで犠牲を強いていることを忘れてはいけないと思う。何よりも知らずして罪を犯すことで神様に対して犠牲を強いていることを忘れてはならない。
アビメレクは言った、「あなたはどうしてこんな事をわれわれにされたのですか。民のひとりが軽々しくあなたの妻と寝るような事があれば、その時あなたはわれわれに罪を負わせるでしょう」。(創世記26章7節)
結局はイサクの嘘は、バレる。だが不思議なかたちでイサクと家族は守られたのである。それはペリシテびとの王アビメレクが神様を恐れる者であったことである。彼は民が罪を犯すことがないようにリベカと寝てはならないとペリシテびとに命令を出した。なんという神様の大きな赦しの中でイサクは守られたことであろうか。イサクだけ特別なのか?そうでない。この出来事はイエス・キリストの人類に対しての贖いの予告であるように思える。私たちはイサクなのだ。ひどい人間である。よくあの人はひどい奴だというが、ひどい人間がひどい人間に言っているようなものである。私たちは自分のことを棚に上げて他人を憎み、赦さない。救いようのない人間である。しかし、神様は赦したのである。赦すということは神様が人間一人ひとりを見捨てず永遠にかかわってくださるということだ。神様どうして私を見捨てたのと言うが、そうではない。であるならどうして神様が十字架にかけられたのか。イエス・キリストの十字架は神様が人間を決して捨てないことの証である。私たちは赦されて生きるのである。
消したい自分にこそ感謝して(神学校週間)
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。(一テモテ1:15)
今、私たちの教会は神学校週間のために祈っています。神学校で学んでいる学生たちを覚えて祈り、学びの支援のために献げていきます。福音を語る者としての使命を抱きつつ学びに励んでいることだと思うのです。
私自身の経験をいうと大変苦い思い出があります。私が神様に献身したのはもちろん救いを伝えていきたいという願いからでした。が、その献身の思いを育てていくことが脇に置かれてしまい、自分を良く見せようかとやっきになっていたのです。自分を他の学生たちと比べてしまいました。しかし、いちばん大切なことはイエス様の召命に応える者となることです。
過去の自分を消してしまいたい。なにも牧師に召される人だけではないでしょう。人であれば人に言えないような罪を犯したり、消したい過去があります。パウロはそうではありませんでした。だからこそイエス・キリストは私たちのところに来られたのだ。救いの恵みを誰よりも深く感謝して受取りました。パウロは罪があるところにはイエス・キリストの救いも豊かに注がれることを知っていました。罪深い者だと知ってこそイエス・キリストの福音が豊かにあらわされることを献身者の皆さんに知っていただきたいと願います。
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