Archive for the ‘メッセージ’ Category
12月7日 アドヴェント第2主日礼拝 創世記48章1~11節 「孫に継承される神の約束」
これらの事の後に、「あなたの父は、いま病気です」とヨセフに告げる者があったので、彼はふたりの子、マナセとエフライムとを連れて行った。 (創世記48:1)
エジプトに移住したヨセフも神様の御許に召されるときがきました。ヨセフはふたりの子、マナセとエフライムを彼のもとに連れていきます。
ヨセフは父に言った、「神がここでわたしにくださった子どもです」。父は言った、「彼らをわたしの所に連れてきて、わたしに祝福させてください」。 (創世記48:9)
ヤコブは、このとき孫たちを祝福しようとしています。私たちクリスチャンは祝福の継承についてどうとらえるでしょうか?日本の教会、クリスチャンたちが信仰の継承というときに頭に思い浮かぶのは「行い」です。礼拝を守る。教会を守る。親の信仰を引き継ぐなど聖書が言っていることとは、ほど遠いところに子どもたちを追いやり苦しめているのです。
ヤコブは、自らの生涯においてうけた神様からの祝福、恵み、憐れみをいま、孫たちに示すのです。私たちが子や孫に継承するのは自らの信仰の行いではなく、私たちが神様から受けた祝福、恵み、憐れみなのです。あなたは自分の子に何を伝えるのですか?神様の祝福、恵み、憐れみ それとも 自分の行いを誇ることですか?
自分はこうやって信仰を守ってきた。それであるならあなたは神様でなく自分の行い、信仰を誇っているにすぎません。イエス・キリストの誕生を待ち望むこのとき、あなたが伝えるのは自分の行い、信仰ではなく神様の愛、犠牲、憐れみであることを忘れてはいけません。
10月19日 主日礼拝 創世記45章1~15節 神はあなたの中にいるのですか?
しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。 (創世記45:5)
ヨセフ物語もいよいよクライマックスに入りました。今まで自分の正体を明かすことができなかったヨセフでした。しかし兄ユダの犠牲の愛ある訴えについに決心をしたのでした。
兄弟たちは、驚きうろたえたと聖書にありますが、喜びよりも恐れ、戸惑い、不安のほうが大きかったことでしょう。かつて妬みのゆえにヨセフを殺そうとしたのですから、もしかするとこの機会にヨセフは自分たちに復讐するのではと思うのは当たり前のことです。
そう思っていた兄弟たちにヨセフは予想もしない言葉を発するのです。それが45:5の御言葉「神は、あなたがたの命を救うために私を先にエジプトへ遣わされたのです。」おそらくいや兄弟たちにはわからない言葉であったでしょう。苦しみの中にあるヨセフの人生に神が共におられることを経験したゆえに語られた力強い言葉でした。
多くの人が「神様はどこにおられのか?」と問いますがわからないのは当たりまえのことです。一回ぽっきり、その場限りでどうして神様が見えるでしょうか?いくつもの試練の中で、孤独の中で、神様との出会いをとおしてわかることです。あなたは一回ぽっきりですか?
10月12日 主日礼拝 イザヤ書1章10~20節 「論じ合おうではないか」
主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。 (イザヤ書1章10~20節)
世界の終末とは聖書において何を意味しているのでしょうか。神様の人類に対する裁き、天変地異。あるいは殺人ウイルスの蔓延。エボラ出血熱は世界中で大変なことになっています。戦争など私たちを不安にさせるものを数えるならきりがありません。
私が思う世界の終末とは「愛が冷える」ことではないでしょうか。今、最も世界において危険なことは人間にある愛が冷えて、冷えるばかりか消えてなくなる危機に人類は瀕しているのではないかと思うのです。
イザヤが神様の預言者として召しを受けた時もそうでした。イスラエルの国全体が神様に対しての愛が冷えて、消えてしまったのです。礼拝の危機、共同体の危機は愛が冷えるところからはじまるのです。現代のキリスト教会の危機は高齢化、信教の自由の危機、そうではありません。神様に対する愛、救いに対する感謝の心、がなくなっていることがいちばんの危機です。
教会が力をなくしている。それは神様への愛が冷えてしまったことにあるのです。教会にある私たち一人一人が神様に対しての愛が冷えてしまっていないかどうか。問いかけていく必要があります。日本のキリスト教会の再生はそこからはじまるのです。
10月10日(金) 女性会例会 ヨハネ6章1~14節 「無戸籍でなく、すべては神のものに」
「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。 (ヨハネ6:9)
現代の日本において戸籍を持たない子どもたち、無戸籍のまま生活せざるおえない人たちがいることをご存じだろうか?背景にはDV離婚などがあります。私自身の過去において母がDVを受けて家を一緒に飛び出した経験があります。そのときに隠れるようにして生活していたことを思い出しました。無戸籍ではありませんが、自分の存在を隠して生きなければならない。どんなにか辛く、苦しい生活を強いられているでしょうか。
今日の場面は、一人の子どもがイエス様のまえに自分の持っている食べ物を差し出す場面です。今まで何気なく読み過ごしていた箇所でした。ですが深い意味と大きな慰めをいただきました。イエス様が私たちを呼んでいる。必要としている。差し出した物を受け取られ、イエス様によって豊かに用いられるのです。
イエス様に食べ物を差し出した子どもはどのような子どもだったのか?詳しくは書いてません。でもイエス様が知っているのです。すべての人は神のもの、イエス様に覚えられているのです。イエス様が私を必要としている。呼んでいるのです。今まで私の存在は小さいと思っていました。誰も必要とせず、いなくなればいいと思っていました。しかし、私はイエス様のまえに小さくない。愛されている。イエス様のまえに大きい存在、必要とされている存在、なんと大きな喜びでしょうか。あなたもイエス様は呼んでいるのです。必要としているのです。すべての人は神のものなのです。
9月28日(日)主日礼拝 創世記44章1~13節 「あなたは新しくされているか」
ヨセフは兄弟たちをなぜ窮地に追い込むようなことをしたのでしょうか?読んでいて理解に苦しみます。聖書にはこのような出来事が数多く描かれています。数多くというのはこの世には理解に苦しむことがあるということでしょう。
私たちは、相手に、外側になぜという意味を求めます。ですが、いちばん大切なことは自分がどうあるべきなのか、自分にとってこのことはどういう意味があるのか、苦難のなかで、悲しみのなかで、私はそれでもどのように生きるべきなのか神に祈り求めていくことなのだと思うのです。
よく、わたしは言われます。「苦労しないで育ってきたと思う。牧師さんは、」しかし、私がどれほど痛みと悲しみを経験してきたのか、いやというほど人の残酷さを味わってきたか。誰も知らないでしょう。しかし、神様だけが私の苦しみ、悲しみ、痛みを知っている。これが私をかろうじて支えてきたのです。唯一の生きる支えでした。
人はまったく人の内にある苦しみ、悲しみをわかりません。わからないのです。神様だけが知っています。その神様があなたを新しくするのです。あなたのいのちを新しくすることができるのです。
9月21日 主日礼拝メッセージ 創世記43章25~34節 「神の夢に加えられる」
そこでヨセフはヨセフ、彼らは彼ら、陪食のエジプトびとはエジプトびと、と別々に席に着いた。エジプトびとはヘブルびとと共に食事することができなかった。それはエジプトびとの忌むところであったからである。 (創世記43:32)
いよいよ、ヨセフ物語もクライマックスにはいってきました。兄弟そろってヨセフのまえに拝した場面から読み進めていきます。あれほどヨセフの夢を憎んで否定した兄弟たちでした。しかし、ヨセフが見た夢のとおりになりました。これは神様の夢であったことが明らかにされたということでしょう。
神様はこれからどのように兄弟たち、父ヤコブはじめ家族たちを夢に加えられるのでしょうか。神様は私たちも神様の夢に招かれます。夢を見ることができないこの世界に生きる私たちに夢を見なさいと招かれるのです。
またヨセフの前から、めいめいの分が運ばれたが、ベニヤミンの分は他のいずれの者の分よりも五倍多かった。こうして彼らは飲み、ヨセフと共に楽しんだ。 (創世記43:34)
ヨセフと兄弟たちが共に食卓を囲み、ヨセフの前からめいめいの分が運ばれました。私たちも神様の御前からめいめいの分をいただくことができるのです。現代は多くの人たちは神様からいただかずに他者のものを奪い取っています。私たちも神様からいただくことを知って豊かな人生を生きたいものです。
9月14日 主日礼拝 詩編71編8~18節 「年老いてもあなたの救いを語り続けます」
神よ、あなたはわたしを若い時から教えられました。わたしはなお、あなたのくすしきみわざを宣べ伝えます。 神よ、わたしが年老いて、しらがとなるとも、あなたの力をきたらんとするすべての代に/宣べ伝えるまで、わたしを見捨てないでください。 (詩編71:17・18)
今日は敬老折り鶴礼拝です。長生きは神からの祝福です。ですが、この日本ではそうとも言えないようです。私たち人間の生は神からの恵みです。医療の進歩によって飛躍的に寿命が長くなったことに対し私たちは生に対する尊厳も喜びもなくなったということでしょうか?
また、年長者を敬うことも薄れてきています。人生の経験をとおして若い者たちが学んでいくことが知識が豊かに、誰もがいとも簡単に手に入れることができるようになったことで学ぶこともないということでしょうか。教会はこの時代の流れに対しどのように受け止めていくことができるのでしょうか。教会もこの世と同じように長生きは害であると言ってしまうのでしょうか?
神を信じる者には特別な恵みがあります。それは神の救い、恵みを知り続けることです。この恵みは神との交わりなくしては得られない特別なものです。礼拝をとおして積み重ねられた神からの恵みと愛は信仰者からキリストにあるかぐわしい香りをだします。一日そこらではできないことです。信仰生活における年長者にはそのようなキリストにあるかぐわしい香りがあるのです。日本のキリスト教会はこのような特別な恵みをいただいていることに感謝しなければなりません。それとも私たち教会は神の恵みを軽んじているのでしょうか。神から問われています。
9月12日(金)女性会例会 ヨハネ15章1~17節 献身について
わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 (ヨハネ15:12~13)
バプテスト女性連合では9月を「献身者デー」として、特におぼえて祈る月としています。私たちキリスト者にとって献身とは何でしょうか。イエス様はキリスト者すべての人に献身を求めておられます。しかし、私たちキリスト者は献身を特別なものとして牧師、宣教師などという枠組み限定してしまったようです。そのほうが楽だからでしょう。
イエス様が私たちに求めている献身とは何でしょうか。ヨハネ15:12~13のイエス様のお言葉です。イエス様が私たちを愛してくださったように私たちも友のために全身で愛していくことなのです。友というとまた私たちは自分の都合のよいように限定します。しかし、イエス様は私たちを友として愛してくださったのです。「イエス様、何なの?」「イエス様、馬鹿みたい」とまだイエス様を知らない私たちを友として愛してくださいました。私たちも愛することをとおしてイエス様の私たちに対する深いを愛を知るのです。
それとも、私たちはイエス様に愛される資格があると思っているのでしょうか。いつの間にか、いや、私たちはイエス様に愛されるということがどういうことか本当にわかっていません。だから心が空洞で寂しいと言い続けるのです。イエス様は私たちに呼びかけます。「私と同じように愛してみなさい。そしたら、どれほど私があなたを愛しているかわかるよ」と
9月7日 主日礼拝メッセージ 創世記43章15~24節 「あなたの過去を神にささげなさい」
ところがこの人々はヨセフの家へ連れて行かれたので恐れて言った、「初めの時に袋に返してあったあの銀のゆえに、われわれを引き入れたのです。そしてわれわれを襲い、攻め、捕えて奴隷とし、われわれのろばをも奪うのです」。(43:18)
再び、ヤコブの子どもたち、ヨセフの兄たちは今度は末の弟ベニヤミンを連れてエジプトへ下り、ヨセフの前に立ちました。ヨセフは兄弟たちと食事をするために彼らを家に連れていくようにしもべに命じます。兄弟たちはヨセフの家に連れていかれることを奴隷とされるのではないかと恐れこのような言葉を発したのです。
神のゆるしを知らないならば人はいつも心に怖れと猜疑心をもちながら生きていかなければなりません。アダムとエバが神に食べてはいけないといわれた善悪の知識の実を食べて身を隠したように、私たちも本当の自分を隠して生き続けていくのです。どれだけ私たちは自分を偽って生きているのでしょうか?偽るのは本当の自分を隠すためなのかもしれません。
神の御前に行くにしてもお清めとか様々な儀式をとおしてでなければ神の御前に出ることができないのが世の宗教です。しかし、主イエス・キリストの父なる神は私たちが罪を隠さないで御前にでることを求めます。悔い改めの心、己の罪、醜さ、愚かさを嘆く心をもって来ることを求めるのです。
現代の日本はなんと多くの過ちを隠している社会、人で埋め尽くされていることでしょうか。隠されているものはやがておさえきれなくなってもっと大きく、恐ろしい罪となって私たちを苦しめるようになるのです。隠してはいけません。クリスチャンほど、教会ほどかかえている問題を闇に押し隠そうとしている場所になっているのではないでしょうか?
神だけが私たちの罪を取り扱うことができるお方なのです。「あなたの過去を神にささげなさい」神に罪ゆるされることなしに私たちの心は解放されることはないのです。
8月31日 主日礼拝メッセージ 創世記43章1~14節 「神の夢を取り戻す」
「どうか全能の神がその人の前であなたがたをあわれみ、もうひとりの兄弟とベニヤミンとを、返させてくださるように。もしわたしが子を失わなければならないのなら、失ってもよい」(創世記43章14節)
私たちはこの世界で夢を持ちます。夢を持つことは大切。教会はビジョン(幻)を持つことが必要だ。ありとあらゆる場所で夢が氾濫しているように思います。しかし、私たちが使っている「夢」とは本当の「夢」でしょうか?「欲望」あるいは「自己願望」であるかもしれません。この世界のためと言いつつ私たちの心の中にあるやりきれない思い、あるいはこの世界に対する不満を「夢」という言葉に置き換えているだけのように思います。多くの人たちはこの言葉に思いっきり反論するでしょう。あるいは敵意をもってひねりつぶすかもしれません。イエス様も時の宗教家・群衆によってひねりつぶされました。
一度、真実な夢を神様が私たちに見せる時、私たちは激しく神様の夢に反抗します。なぜでしょうか?神様の夢はおよそ私たちの求める夢とは正反対のものだからです。神様の夢はこの世界の救い、人間を罪から救うことでした。こんな夢、私たち人間にとって何の利益にもならない。喜びにもならない。と思うのです。ですがこれが神様の夢です。罪にあって苦しんでいるこの世界・私たちを救いたいと神様は夢を持つのです。途方もなく大きな夢、実現不可能に思える夢、しかし、この夢こそが私たち教会・クリスチャンが持つべき夢ではないでしょうか。神様は同じ夢を持つ人を求めているのです。神様の夢にすべてをかける人を。ヤコブもそうでした。神様の夢に自分をささげた人々によって神様の救いの御業があらわされていくのです。
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