鮫バプテスト教会| JR八戸線 鮫駅からすぐの明るい教会です

八戸市鮫町の日本バプテスト連盟所属のキリスト教会です

Archive for the ‘祈祷会’ Category

6月5日(水)祈祷会メッセージ 詩篇130篇 深い淵から

2013-06-05

130:1 【都上りの歌】主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
130:2 主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。
130:3 主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。
130:4 しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。
130:5 私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。
130:6 私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。
130:7 イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。
130:8 主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。

人は絶望の淵に落とされた時、神を呼び求める。神は私たちの叫びにこたえてくださる。私たちの魂は深い淵の中に落とされつづけ、自分でも這い上がることのできない深みにまで落ちていく。そのときいったい何が私たちを救ってくれるというのだろうか?この世には寄り頼むものが無いことを痛切に感じる。しかし、神は私たちを深い淵の底にいて私たちをこれ以上落ちることのないようにささえ、引き上げてくださる。「使徒信条」のなかにある救い主イエス・キリストは十字架で死なれ陰府にくだりと主は私たちを深い淵の底から引き上げてくださるために深い陰府にくだられたのである。どんなに深い淵があろうとも神の愛の届かない場所はないのである。

主日礼拝メッセージ 6月2日(日) 創世記23章 サラの死

2013-06-04

23:1 サラの一生は百二十七年であった。これがサラの生きながらえた年である。
 23:2 サラはカナンの地のキリアテ・アルバすなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは中にはいってサラのために悲しみ泣いた。
 23:3 アブラハムは死人のそばから立って、ヘテの人々に言った、
 23:4 「わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を出して葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください」。

現代に生きる私たちは死というものについて、現実に考えているでしょうか。私が子どものとき、まわりの大人たちは人の生きる寿命について厳粛なこととして死を受けとめていたように思います。死をどのように受け入れていくのか誰もが考えなければいけない課題です。ですから人は宗教に救いを求めてきたように思うのです。

ですが、その厳粛さが失われているように思えます。これは現代における危機ではないでしょうか?死を恐れない、直視しないということは生についても考えないことだからです。ですから生への尊厳がなくなり苛めや競争による弊害の社会になっていくのは当然のことなのかもしれません。

アブラハムはサラの死に際し、深く悲しみます。これはサラの死を悲しみをもって受けとめたということではないでしょうか。また、サラを葬る場所を約束の地ヘブロンに決めます。故郷には戻らず神様がアブラハムとサラに与えて下さると約束された地にサラもそして自分もやがては葬られることを受け入れるのです。死は人間が逆らうことのできないものです。しかしアブラハムは神様に希望を置きます。神様を信じる者は死さえも神様の御手に置くことで平安を得るのです。

5月22日(水)祈祷会メッセージ 詩篇128編

2013-05-23

すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。(127:1)

あなたはなんと幸せな人、幸せな人生を送ってきたのか!周囲の人々はあなたを見つめ驚嘆してこう叫んだのである。幸せな人生とはどのような人生を言うのか?有名な人になること、事業で成功して財産を得ること、聖書が教える幸せな人生とは何だろうか?

主はシオンからあなたを祝福されるように。あなたは世にあるかぎりエルサレムの繁栄を見、(127:5)

あなたの人生が続くかぎり良きことを見ることができるように主は祝福を与えて下さるのだ。私たちは自分の手で幸せを作り出そうと必死になって努力している。だが、何かの拍子にころっと崩れていくのだ。主はあなたに幸せを与え続けて下さると約束して下さる。自分の手をやすめて主が与えて下さるものに目を向けていく時を持ちたいものである。

2013年5月1日祈祷会メッセージ 詩篇126編 運命を変える方

2013-05-04

126:1 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。
126:2 そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
126:3 主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
126:4 主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
126:5 涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

今までにあなたの人生、行き方を変える出来事、出会いを経験したことがあるだろうか?詩篇126編はそのような出来事を経験したイスラエルの民が神様に賛美と感謝をささげた歌である。

BC587年に南ユダは滅亡した。イスラエルの民はバビロンに捕囚の民として連れて行かれ、もう二度と自分たちは故郷エルサレムに戻ることはないと諦めていた。しかし彼らは再び故郷の地を踏んだ。彼らは「夢を見ている人のようだ」と思った。

しかし、これは夢ではない。現実に起きていること、誰が起こしたのか?「神である」と自分たちの運命に神様が大きな御業を成して下さったことに気づき、感謝をささげたのである。

私たちキリスト者は自分たちのこともこのように恵みを受けた者である。ことを自覚しているだろうか。キリストによって救われても、尚自分の運命は変わらず、人生を呪って日々を過ごしていないだろうか?イエス・キリストによって救われた私たちキリスト者には神様の御手が働いていることを忘れてはならない。

4月24日(水)祈祷会メッセージ 詩篇125篇 主があなたを支えてくださる

2013-04-24

主に信頼する者は、動かされることなくて、とこしえにあるシオンの山のようである。 
山々ががエルサレムを囲んでいるように、主は今からとこしえにその民を囲まれる。 
これは悪しき者のつえが/正しい者の所領にとどまることなく、正しい者がその手を/不義に伸べることのないためである。 
主よ、善良な人と、心の正しい人とに、さいわいを施してください。 
しかし転じて自分の曲った道に入る者を/主は、悪を行う者と共に去らせられる。イスラエルの上に平安があるように。  詩篇125篇

主に信頼する者は、主がその人をささえてくださいます。主がささえてくださるのはあなた自身であり、あなたの人生であり、病気のときも、死の間際でも、また死を打ち破ってあなたを復活させてくださいます。主なる神様を信頼するとはあなたの生と死のすべてをささえてくださる御方を信頼することです。

主があなたをささえてくださることにおいて条件はありません。ただ信頼することが条件です。あなたがきちんとしているか。していないか、そんなことは条件に入りません。ただあなたが主を信頼できるかどうかにかかっているのです。今の日本は何でも自分で責任を負う、最後の人生までひとりで責任を負って生きなさい。という考え方に汚染されています。本来人はお互いに支え合い、助け合いながら生かされていく者として神様から造られました。それを神のように何でも自分で責任を負って生きなければならない。という生き方は必ず破滅をもたらします。まさに「自分の曲がった道に入る者」のように神様の御心に逆らっている、救われない、傷ついた、癒されない生き方を今の若者たちに大人は押し付けているのです。

神様は決してそのような社会をそのままにしてはおきません。ひとりの人生を踏みにじり支配するような社会は神様の裁きを受けます。とは言っても人間のように裁くのでなく、間違ったものを正しくする裁きです。「悪しき者の杖(支配)が正しい者の所領にとどまることなく」とあるように神様に逆らう者(自分の力だけで生きる者)を斥けます。真の王(愛と正義)が正しい者(主に信頼する者)たちを治めて下さるのです。私たちは自分で悩むまで、苦しむまで、追い詰められるまで生きる必要はありません。主の御心ではありません。主があなたを支えてくださるのです。

 

2013年4月21日 週報「いずみのほとり」より

2013-04-20

「祈祷会の恵み」

「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。(マタイ181920

 今年度はぜひ祈祷会に出席下さい。祈祷会は教会のいのちです。あのペンテコステの日、みんなが一緒に集まり、こころを合わせて、ひたすら祈っていたとき(使徒2:1)聖霊はくだった、と使徒行伝は伝えます。祈りから教会は誕生しました。キリストの教会は人間の欲求や思想から始まったのでもありません。出来上がったのでもありません。一方的な神様の恵み(プレゼント)です。そしてイエス・キリストの御意志によって教会は建てられたのです。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。 」(エペソ5:25~27)

 今、キリスト教会が元気がない。人が集まらないなどと聞きますが、教会は今一度イエス・キリストの御心を謙り下って聴かなければなりません。根本の問題はクリスチャンたちが教会の主であるイエス・キリストのお言葉を聴かないことにあります。祈祷会はイエス・キリストのお言葉を聴き、キリストの願う者へと変えられていく場であります。祈りが豊かにされなければ教会が豊かにされることは絶対にないのです。反対に貧しくなるのです。

祈りは恵みです。                                                                                                                                                第一に祈るなら私たちの願いが神様に聞かれます。イエス様は約束されました。「あなたがたが心合わせて祈るならば、天の父なる神様はそれをかなえて下さるであろう」と。毎日の必要なことや助けなどを神様に持っていき共に祈りましょう。祈りをとおして神様がどんな小さなことでもお心をよせて下さることを知るのです。

第二にイエス様と親しくお会いできることです。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいると言われました。」イエス様は私たちが心合わせて祈るところにおられるのです。イエス様を信じるなら老若男女誰であってもお互いに心を合わせて祈ることができます。それができないならば私たちはイエス様を信じていないのです。自分を信じているのです。イエス様がいない教会?とならないよう今年共に集まり心合わせて共にお祈りしつつ神様の豊かな祝福をいただきましょう。     牧師 林健一

4月14日(日) 週報 泉のほとり

2013-04-12

「神の国と義とを求めなさい」

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(マタイ633

 イエス様は日々の生活を心配し思い煩っている人々に「まず神の国と神の義を求めよ」と言われました。そうすればあなたがたが日々、思い煩っている生活の必要はすべて天の父なる神様が備えて下さることを約束して下さいました。

  最初にイエス様は求めなさいと言われたのであり、あなたがたが何かを行いなさいということは言われませんでした。しかし、世のクリスチャンたちは神の国と神の義とをつくり出そうと必死に努力しています。その結果徒労に終わり神様に失望するのです。

  私たちは神の国と義とを求めることから始めなければなりません。神の国とは何でしょうか?神様が全き支配し治められている所です。私たちの心・生活・人生が神様に全き治められなければなりません。

  神の義とは何でしょか?神様にあなたは義だと宣言されることです。神様があなたは罪のない者だと認めて下さることです。私たちが義と認められる唯一の道は主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて神様の御許に行くことだけなのです。今年私たちは神の国と義とを熱心に求めてまいりましょう。         牧師 林健一

 

2013年4月7日 週報 泉のほとりより

2013-04-09

「新しいことを見ていくために」

イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネ2029

  この聖書の言葉はトマスに向かってイエス様が語られたお言葉です。しかしこの言葉はトマスだけでなくイエス様の復活物語を読む人、聞く人に向かって語られたお言葉でもあるという学者もいます。私たちは自分で見たものだけを信じようとします。けれどもそれは信仰につながっていくのでしょうか?見て信じることは一見正しいことのように見えます。が、それは見て安心するだけのことではないでしょうか?自分が理解でき安心できるものを見るだけなら信仰は必要ないのです。

  イエス様は、ただ盲目的に見ないで信ずる者は、さいわいであると言ったのでないように思います。「見る」は物事をしっかり見て確認すること、自分にとってどういう意味なのか、しっかり考えること。「さいわい」は祝福された者という意味があります。  つまり、あなたはイエス様の復活の出来事をどのように見ていますか?というイエス様からの問いかけです。あなたが真にイエス様の復活の出来事を理解し自分にとって何を意味するのかを理解すなら、あなたは神様から祝福された者となると言っておられるのです。2013年神様は新しいことを見せて下さいます。あなたはどのように見るのでしょうか。                      牧師 林健一

2013年3月31日 イースター礼拝 泉のほとり

2013-04-02

「イースター、主の新しいいのちに生かされて」

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。                                            (ヨハネ2019

   もし、人生をやりなおすことができたらと思うことはあるでしょうか?あの時こうしていれば、違う道を選んでいたらと今の自分を見て思うことがあるのではないでしょうか。 しかし逆に考えてみれば今、生きているからこそ、そのように思える自分がいるので大切なのは人生をふりかえることでなくいのちが与えられていることに感謝することです。

  本日はイースターです。死よりよみがえられた主イエス・キリストを喜び祝います。イエス様がよみがえられた日の朝、弟子たちはユダヤ人を恐れて、鍵をかけて閉じこもっていました。 弟子たちの真ん中に立たれたイエス様は「あなたがたに平和があるように」と復活された身体を弟子たちに見せます。そのとき弟子たちは知るのです。私たちの主はただ生き返ったのではない、新しいいのちに生かされて今、私たちの間に立たれておられるのだと。

                                                       牧師 林健一

2013年2月13日 祈り会メッセージ 詩篇119篇145~152

2013-02-14

心を尽くして呼び求めます。主よ、わたしに答えてください。わたしはあなたの掟を守ります。(119:145)

神さまへの祈りはとても単純だ。心のすべてを注ぎだして神さまに呼びかければいい。「呼び求めます」の意味は大声で叫ぶこと、どうしても聞いてほしいことがあるなら、人を呼んで求めるだろう。ただ呼ぶのでなくその人が必要だから呼ぶのだ。心のすべてを注ぎだして神さまを呼ぶなら神さまはあなたに答えてくださる。

 

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