Archive for the ‘祈祷会’ Category
2月10日週報 泉のほとりより 「信じる自由を求め続けて」
「彼らは『カイザルのです』と答えた。するとイエスは言われた、『それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい』」 (マタイによる福音書22章21節)
明日2月11日は建国記念日だが、教会では信教の自由を守る日として 信じる自由とは何であるかを考えていきたいと思う。神を信じるも信じないも自由だと当たり前のように考えるが本当にそうだろうか? 私たちがどんな時でも神を信じ続けることができるだろうか?そうでないだろう。自分の立場が苦しくなったり、危うくなったり、神よりも心地よいものがあるなら簡単に神を信じることをやめてしまう。外からの要因で簡単に信じる自由を奪われてしまう。その危うさに気づいていない。 本当の信じる自由とは自分の意思をもって神を信じ続けることを選び取ることの自由である。それは大変なことであるが自分が神を信じることを選び取ったという自由と爽快感がある。 長崎に26聖人の記念碑がある。日本で最初のキリスト殉教者であった。神を信じることを最高の喜びとして彼らは信仰を捨てなかった。先達たちの信仰の戦いの上に今の信教の自由があることを忘れないでいたい。 牧師 林健一
2月6日(水)祈り会 詩篇119編137~144節
主よ、あなたは正しく、あなたのさばきは正しいのです。137節
お願いごとをすることが神に祈ることだと私たちは思うが、イエス様は私たちが願うまえからそのことをご存知であると言われた。私たちの天のお父様は私たちの思いをよくご存知である。だったらどうして私たちの願いをすぐに聞いてくださらないかと思うだろう。よくよく考えてみると人の親でも子どもの願うことをすぐに聞くだろうか?まず子どもにとって何が最善なのかを第一に考えて子どもによきものを与えないではないだろうか。神は私たちの天の父であって、欲望の道具でない。私たちに何がいいのかいつも考えておられる方である。
主よ、あなたは正しく、あなたのさばきは正しいのです。この祈りはお父様、あなたは信頼できるお方です。とだから大丈夫です。と祈っている。天の父なる神はあなたに何が一番よいのか、そのことをいつも思っていることをどうか知ってほしい。
2013年2月3日週報 「泉のほとり」
「信仰とは何か」
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」 (ヘブル人への手紙11章1節)
信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。と聖書は私たちに語る。信仰とは、何か漠然と描くものであったり、何か与えられたら儲けものと思うものではない。私たちの中にはっきりと何を望んでいるかを確信することができるものである。
また、いつか現実となればいいと思うものでもない。このことは、まだ現実となっていないが時が来たときに必ず実現することを確認して待ち望むことである。信仰とは神から与えられるものである。私たちがこうなればいいという願望を神に願うことではない。神から与えられた約束をしっかりと握り、信じて待ち望むことである。
私たちは、どれほど神の約束を信じ待ち望んでいるだろうか?聖霊なる神の助けの中でイエス・キリストが約束された救いの実現を待ち望む者となりたい。 牧師 林健一
2013年1月27日 週報『泉のほとり No.301』
「祝福の神」
「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしは呪う。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。 (創世記第12章3節)
創世記12章に入って神はひとりの人を選ばれた。信仰の父アブラハムである。最初の人アダムが肉なる者すべての父であるなら、信仰の人アブラハムは信じる者すべての父である。 アブラハムは神の召しに答えた。神の召しは英語でcallingとも呼ぶ。聖書における神の召しとは、神の恵みによって呼び出されることである。アブラハムはまだ神の名も、存在も知らなかった。しかし、彼はただ神の恵みによって召し出されたのである。
神がアブラハムを呼び出したのは理由があった。アブラハムによって地のすべてのやから(人々)が祝福されるためである。その中には当然私たちも入っている。 神はいまも私たちを祝福し続けている祝福の神である。聖書の神を信じることは祝福の神を信じることである。神が私を祝福してくださることを信じることである。私が信じる神は罰をあたえる神でなく祝福をあたえる神である。
牧師 林健一
2013年1月20日 主日礼拝 週報 『泉のほとり』
「心を大事に」
「ノアはすべて神の命じられたようにした。」(創世記第6章22節)
現代に生きる私たちは多くの情報や物資に囲まれている。一見幸せそうだがどれが自分にとって善い選択か悩んでいる。自分にとって善い選択だと思って選んだ道が後に間違った選択であったと後悔するのである。
人生の選択で悩むときに選択する大切な基準は「条件がよい」、「私にとってよさそう」という基準で決めるのでなく、「自分を生涯にわたって支えてくれる、自分の人生を豊かに建て上げる」ものを選び取ることが本当の幸せにつながっていくのではないだろうか。
ノア(意味はなぐさめ)は真に自分の人生において賢い選択をした人であった。ノアの時代はすべての人が神さまの前に乱れて、暴虐が地に満ちた。(11節)しかしノアは神さまの言葉を聞くことを選び取った。それゆえに神さまが起こされようとしていた大洪水の備えをせよとの言葉(13~19節)にノアは従った。
作家の三浦綾子さん人の言葉を聞くことにおいて「私たちが、人の言葉をきちんと受けとめられないのは、人の心を大事にしないところにあるのではないか。」と語った。そういう意味においてノアは神さまの心を大事にした人であった。心を大事にすることで私たちはノアのように真実を選択できる者となるのではないだろうか。聖書から神さまの言葉を聞くときにもそのような心構えで聞けたらと祈り願いたい。 牧師 林健一
http://www.hyouten.com/ 作家三浦綾子記念文学館ホームページ
2013年1月13日 週報 泉のほとり
「謙遜になる」
「罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」(創世記第4章7節)
人間は神によって創造されました。しかし神に背いた時から人間の悲惨な歴史が始まったと聖書は語ります。神に祝福された最初の人アダムとエバはエデンの園から追放されてさすらう人生を送ることになりました。
私たちもアダムとエバのようにさすらう人生を送っているのです。 神から離れたために人は自分で生きなければなりません。神から離れた人生は悲惨なものです。アダムとエバの子どもであるカインは弟アベルを嫉妬と憎しみのあまり殺害するのです。
神から離れてしまった人の心は孤独と不安に満ちています。だから自分を守ることにやっきになり、兄としてのプライドが傷つけられたカインは最愛の弟アベルを殺害するという悲しい選択しかできなかったのです。
先週、高校生が自らの命を絶つ心傷むニュースが報道されました。体罰がどうかと世間ではいいますが、学校、社会にある根本の罪の問題に向き合わなければいけない時期に日本は来ています。 牧師 林健一
新年礼拝2013年1月1日 泉のほとり
「神さまとともに歩む新年」
2013年新しい年を主に感謝しましょう。この年が、皆さまに恵み溢れる一年となりますようにお祈りいたします。いつも太陽が昇るように、また新しい年が来ました。「どのようにこの新しい年を始めるべきだろうか。」これは新しい年を迎える私たちすべてに投げかけられる質問です。
その答えはただ一つです。神さまとともに始めることです。 2013年も私たちを取り巻く状況はさらに厳しいものが待ち受けていることでしょう。被災地の復興は未だ見えず、不安定な政治、停滞している経済など一体どこに希望があるのだろうかと思いたくもなります。
だからこそ私たちは「へりくだる心」で神さまの御言葉を聞き、知恵をもって歩む者とさせられたいと願いたいものです。私たちの目を主イエスに向けて、走り、歩き、賛美しましょう。神さまとともに歩む新年、神さまを思い、神さまを心から愛する祝福の新年になるように私たちみな、神さまとともに始めましょう。
初週祈祷会のご案内! (ぜひご出席ください。お待ちしています)
1月 9日(水) 牧師館 午後7時
2012年12月23日クリスマス礼拝 泉のほとり
「クリスマス(あなたの上にも星は輝く)」
「彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。」
(マタイ2章9・10節)
クリスマスおめでとうございます。救い主イエス・キリストの誕生を心よりお祝いします。暗闇の中に光が、絶望から希望に、悲しみを喜びに変える私たちのための救い主を喜びましょう。今から約2000年前に救い主イエス・キリストにお会いした人たちがいました。荒野の羊飼いと東方から来た3人の博士たちです。どちらも神さまから離れた罪人たちだと当時の人たちから軽蔑され忌み嫌われていました。しかし、救い主にお会いする恵みに預かったのは他ならぬ彼らでした。神さまは、東方の博士たちに星をとおして導かれたように、私たちの上にも星を輝かせて救い主イエス・キリストへと招かれるのです。今、私たちも星に導かれて救い主イエス・キリストのもとへ行こうではありませんか。 牧師 林健一
2012年12月16日週報 泉のほとり
「アドベント(神さまからのプレゼントを信じる)」
「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、 子供たちがもういないから。」(マタイ2章18節)
今日は衆院選挙の投票日です。これからの日本の行く末を決める大事な選挙になりますが、誰に投票しても同じ今の状況は変わらないと半ば諦めのムードさえ漂う雰囲気がなくもありません。これから日本はどうなるのだろう?不安に誰もが思います。
イエス・キリストが誕生された時代も希望が持てない時代でした。『マリア』の映画ではイスラエルを支配していたローマが民衆たちを武力で支配していた様子が描かれています。人びとはローマ兵に怯え、笑うこともできない苦しみに満ちた表情をしていたのではないかと想像します。
当時イスラエルの王であったヘロデは真の王の誕生を恐れて2歳以下の男の子を皆殺しにせよと恐ろしい命令を下します。人間は神さまにどこまでも反抗し救いを求めない。悲しい人間の現実を私たちはヘロデに見ます。
しかし、それでも神さまの救いの計画はイエス・キリストをとおして成されるのです。クリスマスは私たち人間への神さまの愛が何も押しとどめることはできないことを伝えるのです。 牧師 林健一
2012年12月12日(水)祈り会メッセージ 詩篇119編89~96節
『主よ、あなたのみ言葉は/天においてとこしえに堅く定まり、あなたのまことはよろずよに及びます。あなたが地を定められたので、地は堅く立っています。』(119:89~90)
誠心誠意の言葉は人に生きる力を与えます。またその人の歩みをささえていきます。人とは不思議なものです。言葉によって生きるからです。某テレビ局の番組で「世界は言葉でできている」との言葉どおり詩人は自分の生きている世界は神さまの言葉でできていることを感謝のうちに告白し神さまを賛美します。それは詩人の人生が神さまの言葉で支えられてきたからです。
『あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう。』(119:92)
詩人は人生における危機のときに神さまの言葉が喜びであったがゆえに滅びから救われたことを告白しています。人生の危機のなかで私たちは家族から、親しい人から支えの言葉をかけられ歩みだしていく力を与えられた体験があると思います。神さまの言葉は人以上にいやすべてのものに勝って滅びから救い出す力を持っているのです。
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