鮫バプテスト教会| JR八戸線 鮫駅からすぐの明るい教会です

八戸市鮫町の日本バプテスト連盟所属のキリスト教会です

Archive for the ‘祈祷会’ Category

8月21日(水)祈祷会メッセージ 詩篇139篇1~12節

2013-08-22

139:1 主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。
 139:2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。

誰も私のことはわかってくれないと哀れんでいないだろうか。投げやりになっていないだろうか。天地を創造した神様があなたを探り、知りつくしておられることを知ってほしい。私たちが神様に祈るときイエス様は「あなたが祈る前からもう父なる神様はあなたの祈りを聞かれている」(マタイ6:8)と言われた。それは神様がすごいということをイエス様は言いたかったのではない。どれだけあなたのことを想い、愛しているかを伝えたかったのである。神様はあなたを見ていることを忘れないでほしい。

7月31日(水)祈祷会メッセージ 詩篇136篇16~26節 「あなたに御心を留められる神」

2013-07-31

イスラエルの民に荒れ野を行かせた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。(詩篇136:16)

荒野を行かせられる神様

イスラエルの民はあのエジプトでの奴隷生活から自由にされて、神様がアブラハムに約束されたカナンの地へ旅立ちました。神様は不思議なことに、イスラエルの民を荒野のを通らせられました。お年寄りや女性、子ども、体の弱い人たちなど彼らはいったいどうしてあの過酷な荒野を通ってカナンの地へ行くことが出来るのでしょうか?しかし、荒野を通らせることが神様のイスラエルに対する御心でした。イスラエルの民が一人もかけることなくカナンの地へ行くためには神様の導きなしでは行けないことを彼らに教えるためでした。自分たちの弱さ、欠けを知ることで神様の前に従うことができるのです。彼らは荒野の中でも神様に対して不遜な態度を取りました。自分にまだできるという高ぶりがあるからでしょう。高ぶりの心は自分よりも弱い人たちに対し見下げ、愛を冷えさせます。神様が荒野を行かせられたのは、一人ひとりが弱さを知り、お互いに愛し合うことを教えるためでした。教会もそうであります。教会の礼拝は老若男女、様々な人たちで溢れています。自分の弱さを知っている者だけが本当に神様と出会うことができるのです。神様が見えないというならば、それは弱さを知らないのです。

低くされたわたしたちを/御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。(136:23)

卑しい者に御心を留める神様

イスラエルにとっての神様は卑しい者に御心を留められた神様でありました。イスラエルはエジプトでの奴隷生活での卑しさを嫌というほど味わいました。卑しくされることほど辛いことはありません。現代においても卑しくされることが私たちの周りにはたくさんあります。いじめ、貧困ビジネス、性差別など人々は自分よりも何か劣るものを他人に見つけ卑しめようとするのです。そのような卑しめられた者を神様が御心に留めた。覚えた。それは神様の救いの開始を告げる言葉でした。聖書には神様が御心に留めた。という言葉がたくさん出てきます。ですが、最も偉大なことは神様が私たち一人ひとりに御心を留めていることです。どうかあなたにも神様が御心を留めていることを知って下さい。

7月24日(水)祈祷会メッセージ 詩篇136篇より いつくしみはとこしえに絶えることがない

2013-07-26

主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。(詩篇136:1)

祭りの季節になりました。人々は五穀豊穣の神々に今年一年が幸いであるように祈り、人々の平和な生活を祈ります。しかし、人々の願いどおりに人生がすすむとは限りません。だから人々はこの時期様々な神様に祈り、平和を祈るのでしょう。

ここに何千年も民族としてのアイデンティティを守り続けてきた民族がいます。イスラエルです。彼らの歴史は苦難の歴史でした。彼らをささえてきたのは彼らが礼拝してきた唯一の神様でした。しかし、彼らが礼拝してきた神様は彼らの苦難をいっけんすると見放していたかのような神様でした。それでも彼らは礼拝をやめることをしませんでした。

それは、イスラエルの神様はとこしえに絶えることのない、いつくしみで導いてくださることを信じてきたからです。生を超えて死の先までもおられる永遠の神様がいると、導いて下さると信じていたからです。彼らの信仰は苦難や逆境の最中にもおられる神様を見上げることだったのです。彼らの祈りから神様を信じる本当の人間としての生き方を教えられます。この世的な生き方から自由になり、神の国へと移された選民としての生き方です。クリスチャンも主イエス・キリストによってこの世ですべてが終わるという人生観から神の国という永遠の観点からの人生に変わったのです。

主の恵みを体験する者に

2013-07-17

主はその民をさばき、そのしもべらにあわれみをかけられるからである。(詩篇135篇14節)

イスラエルにおける神様の恵みは現実の歴史の中に現されました。しかし、時が経つにつれ神様の恵みを知らない人たちが多くなってきました。礼拝をしていても、教会に通っていても神様の恵みを実際に体験し知っていなければ何の意味もありません。

イスラエルの歴史に現実に働かれた神様は、今の教会にも働かれます。「主はその民をさばき」とあります。主が悪の中で苦しめられているイスラエルを義でもって救われ、「あわれみをかけられる」苦しみの中にあるイスラエルを慰められたごとく、神様は私たちを義をもって救い、苦しみの中にある私たちを慰めて下さるのです。

今、日本の教会は伝道の衰退、高齢化、働き手の不足など社会情勢を見渡せば困難な事だらけですが、この時こそイスラエルと同じように、歴史に働かれる神様の御業を求めて行く時なのです。

6月26日(水)祈り会メッセージ 詩篇133篇「イエス様がいてこそ教会」

2013-06-26

ダビデがよんだ都もうでの歌。見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。(詩篇133篇)

都もうでの歌もあと134篇を残すまでとなりました。詩篇133篇は主にある兄弟姉妹がひとつになっていることの祝福と喜びを歌っています。私たちは互に言い争いせずに愛し合うことができたらと切に願います。ですがなかなか難しいようです。と言うよりも私たちはそもそも他者を愛することのできない者です。自分をこよなく大事に思う者です。神様はあえてそのような私たちを主イエス・キリストのもとへ招いて下さいました。私たちが神様にあって一つとなるただ唯一の方法は主イエス様の十字架を見上げ、主の贖いの御業を信じることのみで一つになることができるのです。

私たちはお互いを憎み、赦すことができないことを神様は知っていました。私たちが神様を愛せないこともご存知でした。私たちは神様を愛し、人を愛することのできる唯一の方法として主イエス様の十字架をお与え下さったのです。主の赦しの十字架を見るならば私たちの心は赦すことができます。教会に行きつつも十字架を我がものとしないがために赦しを知らない人たちがいます。教会の喜びは主イエス・キリストの十字架を共に見上げ、信じることにのみあるのです。

 

6月23日(日)主日礼拝メッセージ 詩篇23篇「主はわが牧者なり」

2013-06-25

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。(詩篇23:1)

ダビデは神様との関係を特別なものとしました。神様から特別に愛されていることを喜びました。クリスチャンは神様から特別に愛されている存在です。私たちは神様から特別に愛されることに対して大変間違った思いがあります。私だけ特別に神様から愛されるなんて申し訳ない。人と比べて私だけ…と日本人は特にそう思うのではないでしょうか?愛されることに対して人とくらべることは神様に対して大きな罪を犯しています。神様があなたを、他者をどれぐらい愛しているのかお決めになるのは神様です。あなたではありません。またまわりの人でもありません。他でもない神様がお決めになるのです。私が他者より愛されているかとか、あの人は私より愛されているかとか、判断すること自体神様に対して誤った見方をしています。神様があなたを特別に愛している。その愛を喜ぶことが神様がいちばん喜ばれることなのです。あなたと神様との関係が大切であって、同じように他者も神様との関係が大切なのです。あなたはダビデのように神様との関係を第一にしているでしょうか?それとも他者との関係を神様よりも第一としているのでしょうか?

6月19日(水)祈祷会メッセージ 詩篇132篇 神さまを畏れる幸い

2013-06-20

主よ、ダビデのために、そのもろもろの辛苦をみこころにとめてください。ダビデは主に誓い、ヤコブの全能者に誓いを立てて言いました、「わたしは主のために所を捜し出し、ヤコブの全能者のためにすまいを求め得るまでは、わが家に入らず、わが寝台に上らず、わが目に眠りを与えず、わがまぶたにまどろみを与えません」。(詩篇132:1~5)

ダビデほど神さまのまえに幸いな人生を送った人はいません。ダビデが幸いな人生を送ることができた秘訣はどこにあるのでしょうか?神さまを畏れたことにあります。「どうして神さまを信じている国が戦争をするの?」と質問されます。簡単に一言で答えることはできませんが、神さまを信じていると言いながらも神さまを自分のために利用している私たちキリスト者であることは残念がら事実です。

その罪のためにイエス・キリストは十字架におかかりになったのですが… ダビデは神さまを利用しませんでした。真に神さまを畏れ自分を低くしました。真に神さまを畏れる人は神さまを己のために利用しません。それゆえダビデは神さまのまえに幸いを得たのです。反対に自分のために神さまを利用する人は自分自身が神さまの恵みを止めてしまうのです。

神さまを畏れ信頼している人には、平安で柔和さがあります。なぜなら自分を頼みとせず神さまを信頼しているからです。先日、ある牧師家族の集会に出席する恵みにあずかりました。青森という伝道が困難な地域にあって、何十年も伝道の働きをされている。語る言葉一つ一つに神さまへの感謝と喜びを聞くことができました。反対に自分はこうだと言っていることに平安がなく恐れでいっぱいになっている愚かな自分に気づかされました。神さまを畏れる幸いを知る者となりたいと願います。

 

 

6月16日(日)主日礼拝メッセージ 創世記24章15~27節 「祈りに働かれる神」

2013-06-15

言った、「主人アブラハムの神、主はほむべきかな。主はわたしの主人にいつくしみと、まこととを惜しまれなかった。そして主は旅にあるわたしを主人の兄弟の家に導かれた」。(創世記24:27)

私たちクリスチャンは神さまに祈ります。祈りの答えをどのようにして受け取ることができるのでしょうか?アブラハムの僕がイサクのお嫁さんさがしに出かけましたがその場面から学ぶことができます。僕はイサクに神さまがすでに選んで下さった方を信じていました。ではどのように出会うことができるのでしょうか?僕は具体的な祈りをしました。

祈った。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」(創世記24:12~14)

僕はただ神さまに与えて下さいと祈っているのでなく、主体的にこうして下さいと祈るのです。僕に生きた信仰、神さまに生きる信仰を見ることができます。「神さま、こうしてくれればいいですね」という気持ちで私たちは祈っていることがないでしょうか?あまり期待はしていないけどまあ答えてくれたら儲けものよね。という感じで、そこには信仰に生きる姿勢はありません。私たちの祈りは神さまへの信仰に生きているかどうかが大切です。私はこのように信仰生活を豊かに歩みたい。教会を喜びあふれるようにしたい。私はやりますからどうか共にあなたが働いてくださいと、生きる信仰が必要です。僕には生きる信仰がありました。

その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。(創世記24:21)

僕は主がどのように答えて下さるのかしっかりした眼差しで見ていました。その結果、僕は次なる行動へと移ろうとしていたのです。私も僕の信仰にならいたいと思います。祈ったら後はどうでもいいという祈りに主が働かれるでしょうか?私たちは一時的な信仰の歩みをしているのではありません。与えられた人生を歩むようにと主が私たち一人一人に与えて下さっているのです。その中でどのように信仰を建て上げていくのか大切なことです。祈りは具体的な信仰生活の第一歩です。私たちが祈りと共に歩み出すなら主は私たちの祈りに豊かに働かれることを見るでしょう。

6月12日(水)祈祷会メッセージ 詩篇131篇 高ぶらない

2013-06-13

主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事と/くすしきわざとに関係いたしません。(詩篇131:1)

よくクリスチャンが新しく来た人たちのために祈る言葉に「神様の愛を知らない人たちにあなたの愛をお示し下さい」と祈りがあります。かくいう私もそのように祈っていました。しかし、今思えばひどい偽善的な祈りだなと深く悔い改めます。神様は福音の恵みと喜びを知った私をとおして御自身の愛をあらわそうとされたのです。神の民イスラエルが救われた目的がそうでした。神様の愛は言葉では伝わりません。生身をとおしてでしか伝わらないのです。そのことを神様はよくご存知でした。赤ちゃんがなぜお母さんから離れないのか?ふれあいをとおして自分が愛されていることを知っているからです。被災地にイエス様を伝えようとトラクトを配っている団体があるようです。でもそれで本当に神様の愛が伝わるのか今は疑問に思います。私自身、両親が離婚して孤独の中にあった子どものとき思ったことは言葉ではない。私を抱きしめてくれる人がほしいと、どれだけ望んだことでしょう。愛は言葉では伝わりません。生身でしか伝えることができないのです。かくいう私もそのことを忘れ高ぶりのなかにありました。

最近「風に吹かれて」という本を読んでいます。会津の地で伝道をされていた牧師のお話ですが本当に面白いです。地域の人々と関わろうとする牧師の優しい眼差しを感じました。昨日も被災地関係のニュースで耳を疑うようなニュースが報道されていました。今日のテレビでコメンタリーが「この人はいやいやながら被災地の復興の仕事をしていたんですかね?被災地の人たちがどんな気持ちでいるか考えたことがあるのでしょうか?」恐らく考えたことも感じたこともないでしょう。実は教会も神様からこう言われているように思うのです。「あなたたちは自分たちだけが大事みたいだ。私を知らない人たちのためにと祈っているが本当に知らないのはあなたたちでないのか?」

高ぶらずいつも地べたにおいて主の愛を知る者とさせられたいと願います。

6月9日(日)主日礼拝メッセージ 創世記24章1~14節 神の御言葉を選択の基準とする人

2013-06-09

「 天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。」(創世記24章7節)

アブラハムの人生は神をよりどころとする人生でした。人生のすべてにおいて神により頼めたわけではありませんが、彼の人生は一貫して神により頼んでいました。神により頼む人生は幸いです。どうしてでしょうか?たとえ私たちの持っているもをすべて失ったとしても神から与えられるものは尽きることがないからです。アブラハムはそれを身をもって体験しました。

現代は何かを失うことを極度に恐れます。それが自分のすべてであるかのように錯覚するのです。失うことを恐れるあまりかえって自分の命さえも縮めてしまいます。アブラハムは息子イサクの嫁を選ぶにあたり、第一に優先したのは神の約束でした。神の約束を次世代に受け継ぐことを第一としたのです。クリスチャンといっても何を第一としているか問われるような生き方をしていることがあります。神を第一とする生き方は人生を美しく豊かなものとしてくれます。

 

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牧師 林 健一