11月8日 主日礼拝 いったい、何者だろう
2015-11-08
ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。 しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。(ルカ9:7~9)
肝心なことがわからないということがよくないだろうか。いい大学を出ていても、博士号をとっていても、オリンピックやスポーツで名をはせていてもその後の人生で転落する、失敗する人の話をよく耳にする。
その世界では一流であったとしても人生、人間にとって一番大切なことを知らないということはよくあるようだ。ここに登場してくるヘロデという人物をはじめユダヤの人たちもそうだった。ユダヤの人たちはずっと救い主を待ち望んでいた。旧約聖書をよく読みメシヤ(救い主)についてよく学んでいまかいまかと待ち望んでいた。
ところが、待ち望んでいたメシヤ(救い主)であるイエス様が来られたのに誰もわからなかったのである。これはいったいどういうことだろうか?なぜ彼らはわからなかったのか?救い主とは素直に神様からの救いを受け入れることができる人だけに見えるのだ。私たちは神様、神様といっても結局のところ自分を神様としていることがある。そんな私に神様が見えるはずはない。
ヘロデもユダヤの人々も己を人生の支配者とし他から真の支配者が来られることを望んではいなかった。だからイエス様が目の前に来られてもわからなかったのだ。私たちも真に素直になれなければいつまでたっても神様はわからないのだ。
←「10月11日 小運動会」前の記事へ 次の記事へ「11月15日 泉のほとり」→