9月20日主日礼拝メッセージ 「みことばだけ、そして信仰だけ」 聖書:ルカによる福音書8章16~25節
イエス様と弟子たちが舟に乗ってガリラヤ湖を渡ろうとしたときの出来事です。突然、突風が湖に吹きおろしてきて彼らの乗っていた舟は水がかぶって転覆しそうになったのでしょう。
弟子たちはイエス様を起こして助けを求めました。弟子たちのなかに漁師もいましたがどうにもできなかったようです。イエス様は起き上がって、風と荒波とをお叱りになりました。すると不思議なことに風と荒波はまたたくまに止んで静かになりました。
イエス様は弟子たちの不信仰をお叱りになりました。弟子たちは己の不信仰を嘆いたことでしょう。でもイエス様は知っていたのではないでしょうか。どんな人も最初から信仰があるわけではいことを。
弟子たちは、災難に遭遇してイエス様を呼び求めることによって イエス様が真に神の子でありこの世界を治めておられるお方であることを知りました。私たちも同じであります。逆境のなかで私たちはイエス様を呼び求め、このお方の御力を知るのです。
クリスチャンは自分のなかにある神様の愛を表さなければなりません。神様の御言葉の確かさを表さなければなりません。しかし、イエス様が言われた。
16節 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。17節 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。
あかりは周囲を照らしてこそ本来の役割を果たすのだと、あかりを隠してしまって何の意味もないとイエス様は言われます。しかし、私たちクリスチャンはイエス様が言われたように、本当は人々に見えるようにしなければならない光をおおい隠してしまっているのではないでしょうか?
神様の言葉が私たちを照らすためには、明りを高いところに持ってこなければなりません。寝台とかますとかは、この世の生活の座をさします。御言葉を聞いても、日常生活の下においたのでは、力も知恵もありません。しかし、御言葉を私たちの生活の上に掲げていくときに、御言葉は光となり、私たちを慰め、励まし、支えてくださるのです。
光をどうして隠すのか?
ではどうしてせっかくの光を私たちは隠してしまうのでしょうか?光が私たちの目には見えていないのでしょうか?私たちはこの世のものに夢中になってしまい、本当に価値あるものを見失っているのです。
18節 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。
イエス様はよくよく私たちにこう言われるのです。「どう聞くかに注意しなさい」これは「見なさい」あるいは継続して「注意し続けなさい」というニュアンスがあります。よく注意して見続けなさい。なぜなら、あなたが持っていると思うものがすべて価値のないものであり、ほんとうに持つべきものを持っていないことに気づかされるときがくるのだと言っているのです。
私は先週、病院やホームに入居されている教会員の方々を訪問することができました。T姉を訪問したとき、週3回の透析などほんとうにお辛そうな状態でした。私と対面するなり泣きだして先生が訪問に来てくれてほんとうに嬉しいといいました。T姉は「先生、家族が近くにいるのがいちばんだよ」とそのときの私は何も思わないで聞いていました。
しかし、イエス様のこのお言葉を聞きつつ、私は今、真に価値あるものを求めているのだろうか?イエス様の「持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」というお言葉にハッとさせられました。
自分はいま、求めているものは真に価値あるものでなく死をむかえたとき何も持っていないことに愕然とするのではないか?よし、いま気づかされたこのときほんとうに大切な神様の御言葉を第一にし、人生の上に掲げていくことを決意させられました。皆さんはどうでしょうか?皆さんにとって何が大事でしょうか?御言葉でしょうか。それとも何か別のものなのでしょうか。それは皆さんを永遠にささえるものでしょうか。幸せをもたらすものなのでしょうか。
イエス様は私たちを持たない者から豊かに持つ者へと招いてくださる。
イエス様のお言葉に耳を傾け聞くならば私たちは持たない者から豊かに持つ者へとなるのです。
なぜならイエス様は
21節 するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。
神様の御言葉を聞いて行う者をご自分の家族なのだとはっきりと宣言されました。いっけん、イエス様のお言葉は血縁の家族にたいして冷たいように聞こえますがそうではないのです。イエス様は家族を長男として養われました。最期まで母マリヤのことを十字架上でご自分がお苦しみになっても、御心にかけ最愛の弟子ヨハネに託したのでした。イエス様が言っている意味は何でしょうか?
もう一度、イエス様のお言葉を聞いてみましょう。「神様の御言葉を聞いて行う人こそ、私の母、私の兄弟なのである。」これは神様の御言葉を聞いて行う人のみというのでなく、神様の御言葉を聞いて行う人は、だれでも神様の家族だとイエス様は言っておられるのです。
ヨハネによる福音書1章12節
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 13節 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
とあります。神様の御言葉を聞いて行う。「聞く」ということはイエス様の人格をとおして呼びかけてくださった言葉を聞いて信じて行う。ということです。そのような人となるならあなたは神様の家族であり、永遠の命へと招きいれられた方なのです。
向こう岸へ渡ろう
私たちは信仰による喜びの世界へと渡っていこうではありませんか。
22節 ある日のこと、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、一同が船出した。
イエス様は私たちを諦めや絶望の世界から愛と平和と喜びの世界、場所に一緒に渡ろうと言われます。あなただけで渡るのでなく一緒に渡ろうと招いてくださるのです。
聖書の中に海とか水という言葉が出て来ますが、それは不安をあらわすことが多い。私たちの信仰生活もこの不安を超えることなしに、向こう岸へ行くことはできません。イスラエルの人たちが神様に愛されていながら、神様の約束の地に行くためには、荒野をさまよわねばなりませんでした。それと同じように、私たちが信仰の向こう岸へ行こうと思うとき、絶えず不安が起こります。私たちは、不安と恐れで、岸辺にしがみつくのです。風が吹いても、岸にいる間は自分の身は安全であり、不安はありません。多くの人々は自分の身の安全を考えて渡らないのです。
それでは、いつまでたっても信仰の世界にある喜びを見いだすことはできません。向こう岸へ渡ろうと言われたイエス様の言葉を聞いて、船を乗り出すとき、たしかにそこには激しい突風が起き、船は沈みそうになります。ああこんなことになるなら岸を出なければよかったと思うかもしれません。
ですが、そのときこそ信仰をおおいに用いるチャンスです。信仰をおおいに用いてイエス様に拠り頼むとき私たちはどんな困難や逆境が襲いかかってきてもイエス様の御名がそれよりもはるかに勝るのだということを知るのです。
お祈りいたします。