9月7日 主日礼拝メッセージ 創世記43章15~24節 「あなたの過去を神にささげなさい」
ところがこの人々はヨセフの家へ連れて行かれたので恐れて言った、「初めの時に袋に返してあったあの銀のゆえに、われわれを引き入れたのです。そしてわれわれを襲い、攻め、捕えて奴隷とし、われわれのろばをも奪うのです」。(43:18)
再び、ヤコブの子どもたち、ヨセフの兄たちは今度は末の弟ベニヤミンを連れてエジプトへ下り、ヨセフの前に立ちました。ヨセフは兄弟たちと食事をするために彼らを家に連れていくようにしもべに命じます。兄弟たちはヨセフの家に連れていかれることを奴隷とされるのではないかと恐れこのような言葉を発したのです。
神のゆるしを知らないならば人はいつも心に怖れと猜疑心をもちながら生きていかなければなりません。アダムとエバが神に食べてはいけないといわれた善悪の知識の実を食べて身を隠したように、私たちも本当の自分を隠して生き続けていくのです。どれだけ私たちは自分を偽って生きているのでしょうか?偽るのは本当の自分を隠すためなのかもしれません。
神の御前に行くにしてもお清めとか様々な儀式をとおしてでなければ神の御前に出ることができないのが世の宗教です。しかし、主イエス・キリストの父なる神は私たちが罪を隠さないで御前にでることを求めます。悔い改めの心、己の罪、醜さ、愚かさを嘆く心をもって来ることを求めるのです。
現代の日本はなんと多くの過ちを隠している社会、人で埋め尽くされていることでしょうか。隠されているものはやがておさえきれなくなってもっと大きく、恐ろしい罪となって私たちを苦しめるようになるのです。隠してはいけません。クリスチャンほど、教会ほどかかえている問題を闇に押し隠そうとしている場所になっているのではないでしょうか?
神だけが私たちの罪を取り扱うことができるお方なのです。「あなたの過去を神にささげなさい」神に罪ゆるされることなしに私たちの心は解放されることはないのです。