8月4日主日礼拝メッセージ 創世記26章15~22節 「尽きない主の祝福」
◆井戸をめぐる争い
26:15 ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。 26:16 アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」
イサクと一族たちはゲラルの地にしばらく留まった。主がイサクを祝福し彼と彼の収穫、家畜を祝福した。それに対しイサクの力が強くなるのを恐れたアビメレクとペリシテ人たちは彼らに立ち退くことを要求する。教会は自分たちだけ主に祝福されればいいと考えてはならない。イサクはこの出来事をとおして主の祝福とは何であるのかを思い巡らしたことであろう。主の祝福とは一人が独占するのものでなくすべての人に注がれるものであることを私たちは知らなければならない。厚労相が「ブラック企業」の対策強化に乗り出したが、教会も神の祝福を受けようといいつつ無理な信仰の押し付けがないか神さまに祈り聞く必要があるのではないか。
26:19 イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、 26:20 ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。 26:21 イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。 26:22 イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。
一方的に出て行くことを要求されたイサクは争うことなく、神さまの導きのなかで新しい場所をさがしに行く。 イサクたちはやっとのことで井戸を掘るが、ことごとくペリシテ人たちに奪われた。それでもイサクたちは諦めることなく、争うことなく、主が用意された場所に導かれるのである。神さまの恵みを知る者にこそ尽きない祝福があることをイサクの生き方から私たちは教えられる。神さまを知らないがゆえに私たちは自分の権利を拡大し、 他者から奪い取ろうとするのだ。神さまの恵みを知る私たちは尽きない主の祝福があることを知るのである。