7月28日 主日礼拝メッセージ 創世記26章1~11節 「私たちは赦される存在」
アブラハムの時にあった初めのききんのほか、またききんがその国にあったので、イサクはゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った。(創世記26章1節)
イサクとその家族は飢饉にあったため、ゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った。そこでイサクはとんでもない過ちを犯すのである。
その所の人々が彼の妻のことを尋ねたとき、「彼女はわたしの妹です」と彼は言った。リベカは美しかったので、その所の人々がリベカのゆえに自分を殺すかもしれないと思って、「わたしの妻です」と言うのを恐れたからである。(創世記26章7節)
イサクは妻リベカの美しさが自分に禍いをもたらすのではないかと恐れ、妹だと偽ったのである。イサクはなんとひどいやつだと思われかもしれない。しかし、よくよく私たちも振り返ってみればイサクと同じことをしているのではないだろうか?自分の命を守るために、誰かを犠牲にすることがあるのではないか。自分の豊かな生活のために私たちは知らないところで犠牲を強いていることを忘れてはいけないと思う。何よりも知らずして罪を犯すことで神様に対して犠牲を強いていることを忘れてはならない。
アビメレクは言った、「あなたはどうしてこんな事をわれわれにされたのですか。民のひとりが軽々しくあなたの妻と寝るような事があれば、その時あなたはわれわれに罪を負わせるでしょう」。(創世記26章7節)
結局はイサクの嘘は、バレる。だが不思議なかたちでイサクと家族は守られたのである。それはペリシテびとの王アビメレクが神様を恐れる者であったことである。彼は民が罪を犯すことがないようにリベカと寝てはならないとペリシテびとに命令を出した。なんという神様の大きな赦しの中でイサクは守られたことであろうか。イサクだけ特別なのか?そうでない。この出来事はイエス・キリストの人類に対しての贖いの予告であるように思える。私たちはイサクなのだ。ひどい人間である。よくあの人はひどい奴だというが、ひどい人間がひどい人間に言っているようなものである。私たちは自分のことを棚に上げて他人を憎み、赦さない。救いようのない人間である。しかし、神様は赦したのである。赦すということは神様が人間一人ひとりを見捨てず永遠にかかわってくださるということだ。神様どうして私を見捨てたのと言うが、そうではない。であるならどうして神様が十字架にかけられたのか。イエス・キリストの十字架は神様が人間を決して捨てないことの証である。私たちは赦されて生きるのである。