6月12日(水)祈祷会メッセージ 詩篇131篇 高ぶらない
主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事と/くすしきわざとに関係いたしません。(詩篇131:1)
よくクリスチャンが新しく来た人たちのために祈る言葉に「神様の愛を知らない人たちにあなたの愛をお示し下さい」と祈りがあります。かくいう私もそのように祈っていました。しかし、今思えばひどい偽善的な祈りだなと深く悔い改めます。神様は福音の恵みと喜びを知った私をとおして御自身の愛をあらわそうとされたのです。神の民イスラエルが救われた目的がそうでした。神様の愛は言葉では伝わりません。生身をとおしてでしか伝わらないのです。そのことを神様はよくご存知でした。赤ちゃんがなぜお母さんから離れないのか?ふれあいをとおして自分が愛されていることを知っているからです。被災地にイエス様を伝えようとトラクトを配っている団体があるようです。でもそれで本当に神様の愛が伝わるのか今は疑問に思います。私自身、両親が離婚して孤独の中にあった子どものとき思ったことは言葉ではない。私を抱きしめてくれる人がほしいと、どれだけ望んだことでしょう。愛は言葉では伝わりません。生身でしか伝えることができないのです。かくいう私もそのことを忘れ高ぶりのなかにありました。
最近「風に吹かれて」という本を読んでいます。会津の地で伝道をされていた牧師のお話ですが本当に面白いです。地域の人々と関わろうとする牧師の優しい眼差しを感じました。昨日も被災地関係のニュースで耳を疑うようなニュースが報道されていました。今日のテレビでコメンタリーが「この人はいやいやながら被災地の復興の仕事をしていたんですかね?被災地の人たちがどんな気持ちでいるか考えたことがあるのでしょうか?」恐らく考えたことも感じたこともないでしょう。実は教会も神様からこう言われているように思うのです。「あなたたちは自分たちだけが大事みたいだ。私を知らない人たちのためにと祈っているが本当に知らないのはあなたたちでないのか?」
高ぶらずいつも地べたにおいて主の愛を知る者とさせられたいと願います。