2013年8月25日 主日礼拝メッセージ 創世記27章24~34節 神の眼差し
27:24 イサクは言った、「あなたは確かにわが子エサウですか」。彼は言った、「そうです」。
イサクの息子ヤコブは兄エサウになりすまし、父をだまして神からの祝福を受けます。神はなぜヤコブの行為を許されたのでしょうか?一見許されたように思いますがそうではありません。神はヤコブの行為を見逃しはしませんでした。後にヤコブは自ら蒔いた行為を刈り取ることになります。それでヤコブの犯した罪が帳消しになることはありません。どんなに私たちが償いをしたと思っても罪は消えることはないのです。そこに神の赦しを求め、罪の贖いが必要になるのです。イエス・キリストは私たちの罪の罰を受けるために十字架にかかられました。イエス・キリストを信じることに私たちの救いがあります。
私たちの人生は罪を犯し、取り返しのつかない過ちに苦しむことの繰り返しです。地方都市に住む若年層の違法就労が増えている実態があるそうです。彼らは独自のネットワークを持ち、違法だと分かりながら年齢を偽って夜の接客業や危険な仕事をして生活の糧を稼がざるお得ない状況に追い込まれている背景があります。
若年層を取り巻いている社会状況は厳しい現実です。ワーキングプア、見通しが立てない生活設計など彼らの努力だけではどうにもならない問題があります。私たち一人ひとりの中にどうすることのできない問題で罪を犯す現実があることを知らなければなりません。若年層の実態を調査している方がこの問題について次のように語っていました。「彼らのことを自己責任で解決しなさいということは簡単だ。だがどういう眼差しで彼らを見るべきなのか。社会に突きつけられている」
私たちは罪を犯している人たちを簡単にこうだと決めるが、神ご自身の眼差しはどう見ているのか。それは私自身に向けられている神の眼差しを知ることになるのです。私たち一人ひとりの行いに神の眼差しが向けられていることを忘れてはならないでしょう。同時に罪から悔い改めることを求めておられます。神は見捨てることなく私たちを生かす道へ導くお方なのです。