2013年3月31日 イースター礼拝 メッセージ
「人生をやりなおすのでなく」 ヨハネによる福音書20章19~29節
【口語訳】20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。 20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。 20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。 20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 20:26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 20:27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
人生をやりなおすことができたらと思うことはないでしょうか?あの時こうしていれば、違う道を選んでいたらと今の自分を見ておもうことがあるのではないでしょうか。
しかし、逆に考えてみれば今、生きているからこそ、そのように考える自分がいるので大切なことは人生をふりかえることでなく、この先もうどうにでもなれと悲観的になるのでもない、今を生きることができるいのちを与えられていることに感謝することです。ではこのいのちはどこから来ているのでしょうか?私たちは自分で生きて自分で死んでいくような錯覚を持ちます。生まれてくるのも死ぬのも私たちの意志ではどうすることもできないことです。いったいどこからこのような素晴らしいいのちが来ているのでしょうか。
今日はイースターです。死よりよみがえられたイエス・キリストを喜び祝う日です。イエス様がよみがえられた日の朝、弟子たちはユダヤ人を恐れて、鍵をかけて息を押し殺しながらじっと閉じこもっていました。弟子たちの真ん中に立たれたイエス様は「安かれ」「あなたがたに平和があるように」と復活した体を弟子たちに見せます。そのとき弟子たちは驚き知るのです。私たちの主はただ生き返ったのではない、新しいいのちに生かされて今、私たちの間に立たれておられるのだと。では私たちの主イエス・キリストが示された新しいいのちとはどんないのちでしょうか?
死を打ち破るいのちである。
20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
弟子たちはイエス様が十字架で処刑されたあと、ユダヤ人たちを恐れて家の中に鍵をかけて閉じこもっていました。どうしてでしょうか?イエス様の弟子である自分たちも同じように十字架につけられて殺されるのではないか?あるいは当時ユダヤ人たちの間で慣習となっていた石打の刑になるのではないかと思ったからです。
どちらにせよ、肉体の苦しみ、精神の苦しみの中でいのちを失うことに恐れを抱いたからです。私たちがこの世の中の様々なことを恐れるのは自分を守るためです。肉体が痛みを感じるのはいのちを失わないように守るためです。私たちはこの世界で生きていくために自分に危険を与えるものから身を守るために恐れを感じていくのです。
そう考えると人生とは恐ろしいことばかりです。でも、どんなに身を守っても死は私たちを襲ってきます。どんなに死から逃れたいとあれこれしても確実に死は私たちにやってきます。頭のいい人だろうが、生まれてから病気をしたことのない人であっても死は誰にでもやってきます。
死を迎えるのをただ待つだけの人生なんて哀れではないでしょうか。イエス様はそのような死を打ち破ってよみがえり、弟子たちのもとへ来られたのです。死を恐れていた弟子たちはイエス様がよみがえられた姿を見て知りました。このお方こそ真の神であり、死を打ち破ってよみがえられたお方だと。私たちの主イエス様はただ死を打ち破ったのでなく、死ぬことのない永遠のいのちを持った方として弟子たちの前に立たれました。イエス様は約束して下さいました。私を信じる者は決して死ぬことなく永遠のいのちを持つのだと、ですからイエス様を信じるなら死を恐れることなく永遠のいのちを持って生きることができるのです。
イースターをお祝いするのはイエス様の復活をお祝いすることと同時にイエス様を信じる私たちにも同じようにイエス様が持っている神さまからの新しいいのちをいただいていることを感謝してお祝いすることなのです。
私たちを新しく生かす命である。
20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 20:26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 20:27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
復活の日の朝、トマスだけがいなかった。後から仲間の弟子たちからイエス様の復活のことを聞いたトマスは手に釘あとを見、自分の指をその釘あとにさし入れ、手をわきにさし入れてみなければ決して信じないと言います。ここから疑い深いトマスと呼び名されるようになったわけですが、トマスはただ信じないと言い張ったのではないように思います。
トマスはあの十字架で死なれたイエス様がそうやすやす復活するはずがないと思ったのです。それはイエス様を大切に思っていたからではないでしょうか?イエス様と共に歩んだ3年半はトマスにとってとても大切な時間でした。その時間がイエス様の死によってなくなってしまった。失ったものに対する深い思いは誰にでもあるのではないでしょうか。トマスは失ったものが戻ってくることはないと思ったのです。当然、それは誰もが思うことです。
イエス様はトマスのまえにあらわれました。イエス様とトマスの間に新しい人生が始まったのです。中断されたと諦めていたトマスのまえにイエス様はあらわれてこう言われました。「見ないで信じる者は幸いである。」とイエス様はトマスが新しい命に生きることを望まれたのです。復活とはイエス様のよみがえりを信じるだけ十分ではありません。イエス様を死からよみがえらせされた神様の命に生かされることを信じることなのです。信じる者にはイエス様を死からよみがえられせた新しい命が与えられるのです。イースターは私たちが新しい命に生かされることを喜ぶことなのです。