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2013年1月9日(水)祈り会メッセージ

2013-01-09

霊的な人になる。

ゼカリヤ書46節                                                                  すると彼はわたしに言った、「ゼルバベル、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」

霊的な人とはどういう人であろうか?霊的というと警戒されることが多い、熱狂的、狂信的な人だとイメージするからであろう。

聖書は人のはじまりを創世記1章から2章にかけて語る。人は土の塵から神のかたちに形づくられた。ここに人の限界が示されている。私たちは知恵があり知識が増し、文明が進んだと豪語してもちりにすぎない弱い存在だということを知らなければならない。人は未だにちりにしかすぎないことを知らない。いつになったら知るのだろうか。

創世記2章7節には人は神の息によって生きる人となったとある。つまり聖書が語る霊的なということは神によって生きる存在であることを自ら知り謙虚になることである。人は霊的になればなるほど謙遜にさせられていくのである。神なしでは生きていくことができないことを知るようになるからだ。

霊的とは強くなることでなく、ますます神の前に、人との関係の中において謙遜にさせられていくことである。自分という小さな存在が神の息吹によって生かされ、人生の喜びをいただいている感謝なことである。またクリスチャンであるなら教会にある兄弟姉妹たちと共に歩み、祈りにおいて支えられていることを感謝したい。肉的な中にあるときに私たちは本当に感謝という感動を忘れてしまう者である。

私たちは肉的な中で歩まざるお得ない哀れな存在である。だが、可能な限り霊的な歩みをしていこう。私たちが肉的に歩むなら末路は滅びである。なぜなら一人で歩んでいるからだ。多くの人は神はいらないとか神はいるけど空気のような存在だと言っている人たちがいるが、これほど馬鹿で愚かなことはない。

私たち親子の関係、生まれてから親が空気のような存在だろうか?子どもは親のぬくもりを求めて泣いているではないか?それははっきりと父の存在、母の存在が必要だとわかっているからである。

「わたしは一人で生きてきた」と言っている人がいるが一人で生きることが人本来の宿命であるならそんなことはまったく言う必要はない。だって人が本来そのように生きるように定められているならなにもそのように生きればいいだけの話である。「わたしは一人で生きてきた」という言葉はそう生きざるお得なかった心の深いところでの傷みなのである。

私たちは霊的な存在である。尊い存在である。神の愛をはっきりと必要としているし、同時に人との関係でも愛を必要としている。預言者ゼカリヤをとおしてゼルバベルに語られた主の言葉、それは何を意味しているるのか。

「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」

これは一見、人間的なものに依り頼まず主にだけ依り頼めといように聞こえる。依然の私ならそう語るでしょう。しかし今は違う。これは主から人間への励まし、約束の言葉である。

バビロン捕囚から帰還したイスラエルの人たちにいったい何が残っていただろうか。廃墟と化したエルサレム、帰っても何も残っていない。そこには隆盛を誇ったイスラエル王国はない。英雄ダビデもいない。知恵者ソロモンもいない。すべてがなくなった。

リーダのゼルバベルは途方にくれただろう。いったいどうしたらいいのだろうか?そこに主は語る。「大丈夫だ。あなたにはダビデのような権勢もなければ、ソロモンのような能力もないが、わたしがいるのである。今こそあなたはわたしと共に生きるのだ、歩むのだ」と、

私たちの目の前には難問が山積みされている。途方にくれる。悩み恐れる。しかし私たちは進むことができる。主の霊によってすべての山は平らになるのである。2013年私たちは今こそ霊的な人なり主と共に歩みたい。そのとき知るだろう。あなたは一人で生きていく必要がないことを

 

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