2013年1月13日主日礼拝メッセージ
大切なものを失ってもわからない
「罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」(創世記4:7)
アベルの捧げものは神様に受け入れられたが、カインの捧げものは受け入れられなかった。4章前半には兄カインと弟アベルの捧げものことが記されています。カインは神さまに対する怒りと弟アベルに対しての憎しみと妬みの心で大いに憤って顔を伏せました。
そこで主はカインに対して「なぜ、あなたは顔を伏せるのか、正しいことをしていたら顔をあげたらいいだろう。もし正しいことをしていないなら…」と冒頭の言葉に続きます。神様の忠告を聞き入れることが出来ずカインは最愛の弟アベルを嫉妬と憎しみのあまり殺してしまいます。
カインはどうしても自分の心を抑えることができませんでした。神から離れてしまった人の心は孤独と不安に満ちています。兄としてのプライドを傷つけられたカインは自分を守るために最愛の弟アベルを殺害するという悲しい選択しか出来なかったのです。
罪に支配されている人間は神、神が造られたすべての世界を否定します。自分が神になりたいからです。その心はすべての人間が持っているのです。誰一人として罪の支配から逃れられる人など一人もいません。人はまわりのものすべてを犠牲にしても自分のためにと欲望が果てしなくあるのです。それゆえに世界に悲劇が起こり続けるのです。
先週、高校生が自らの命を絶つ心傷む事件が報道されました。スポーツの強豪高ゆえに誰も行き過ぎた体罰が止められなかった、いちばん大切なものを失ってしまった。しかし、報道を見ると誰一人として大切な命が失われてしまったことの重大さに目をむけきれていないように思えます。人間は本当に大切なものを失ってもわからない憐れな存在なのです。いったいどうしたら人間は救われることができるのでしょうか。
①神のいない人生の痛みを知りなさい。
主の前を去ったカインは、エデンの東、ノドの地に住みました。(16節)
カインが住み着いた地名ノドは(さすらい)という意味です。12節で主はカインに向かって「あなたは地上の放浪者となるであろう」と言われました。カインは神がいわれたとおりに歩むものとなってしまいました。
エデン(喜び)を東から見るけれどもそこには戻れないのです。東(向かい側に見る、反対側に見る)に定着したカインの姿は、彼が、とても反抗的で、対抗心を心に抱いていたことを聖書は語るのです。彼の生き方は、尚惨めになっても神に敵対心をもち続ける生き方でした。赦されることを拒む生き方でした。自分の過ちを決して認めようとしない生き方でした。
カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。(17節)
カインは結婚して子どもを産み、町を建てました。町の名をエノクと名づけました。カインのさすらいの人生は終わったかのように見えますが、決して終わってはいませんでした。
カインの生き方は世代を追うごとに暗い影を落とします。20~22節を読むとカインの子孫は増え広がり、文化と文明も発展して生活が安定していくように見えます。しかし、神が宣言された「さすらい」の苦しみは続いていることが、カインの子孫レメク(力強い若者)の言葉を聞いたときにわかるのです。
レメクはその妻たちに言った、
「アダとチラよ、わたしの声を聞け、
レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
わたしは受ける傷のために、人を殺し、
受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
カインのための復讐が七倍ならば、
レメクのための復讐は七十七倍。」 (23・24節)
レメクは自分のために人を殺し、殺したことが当然のことだと高らかに歌いました。主がカインの赦しとして宣言された言葉をも自分の行為のために用いました。神の名と赦しは完全に消えて、暴力と絶え間ない悪の行為が繰り返される世界になりました。
ここに、悪がなぜあるのか?答があります。神はどうしてこのような悪が横行する世界をお許しになったのか?神がお許しになったのではありません。人間がそう望んだのです。しかし、私たちはこうも神に訴えます。どうして悪からカインを救われないのか?カインとアベル両方のささげ物を受取ればよかったのではないか?
じつはそのような心が、私たちをいつまでもさすらう者として報われない人生を歩ませているのです。絶えず神に敵対し、神のもとに帰ろうとしなければ私たちはカインのようにさすらう人生を歩み続けることになるのです。そこに安息はありません。エデン(喜び)に敵対する地であるノド(放浪)で留まってよいのでしょうか。
② 主の御名を呼び求めよ。
神のいない人生ほどむなしいものはありません。
最初の人アダムは、息子たちを失ってはじめて知ったのではないでしょうか?神のようになれると思った自分たちが、子どもたちをいっぺんに失うという悲劇に見舞われた。エデン(喜び)の園から追放され、ささやかながらでも喜びを味わったがそれも束の間でしかなかった。今と変わらないごく誰にでもあるような人生のひとこまです。人は賢く(アルーム)なろうとして裸(エルミーム)であること知った。アダムとエバに新たに男の子が誕生します。
アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代わりに、ひとりの子をわたしに授けられました」(25節)
セツとは与えられし者、安定した者という意味です。アダムは神から与えられしものが幸いであることを知りました。神の恵みに救われました。
セツはやがて成人し男の子が誕生します。セツにもまた男の子が生まれた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。(26節)
セツは男の子にエノス(弱い者)と名づけました。これは、人間の文明と文化を発達させ、大いに栄えたカインの子孫とは対象的に、人はいつかは必ず死ぬ、弱い存在であることを表す名でした。
セツは自分の子に、人間とは弱い者である。だからこそ神の御名を呼び求めなさいとエノスに伝えたかったのだと思うのです。私たちは子どもたちにどのように神の御名を呼び求めることを伝えるのでしょうか?
自分の弱さを十分に知って神の御名を呼び求めることを望むのか?反対にカインのように神から離れ、さすらいの中で神、人を呪う歌を教えることになるのか。神は私たち人間がさすらう人生を歩むことを深く悲しまれているのです。神はすべての人が主の御名を呼び求めて救われることを求めているのです。主の呼びかけに答え私たちは自分の弱さを知り主の御名を呼び求める者となっていきましょう。