2013年1月10日(木)祈り会メッセージ
「主の幻に生きる」 ハバクク2章1~4節
わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについて/わたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。 主はわたしに答えて言われた、「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
2013年私たちはどのような幻に生きるだろうか? 私たちはいかなる幻を抱いてこの1年を歩んでいるのだろうか。私は不思議な体験をしたことがある。大学でいつか学びたい。そのような願いを抱いていた。しかし、現実は夢と遠いものであった。でも私の心の中には大学の教室で座って発言をしているイメージが消えなかった。神学部での学びがゆるされて講義を受けていたときのこと、自分が若い学生たちと一緒に学んでいる光景、ああこれはいつしか願っていたことと同じ光景ではないかと不思議に思ったのである。
またこんな光景も描いていた。子どもたちの前で神さまのことをお話しているイメージである。常盤台教会での教会学校で、幼稚園で子どもたちに話しているのである。これも私が抱いていたイメージであった。実に不思議に思った。心に描いたことが現実となったのである。
油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。箴言4:23
あなたの泉を、外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。箴言5:6
スポーツ選手や音楽家でもイメージトレーニングをして本番に備えるということがあるが、私たちが普段思っていること、考えていることが私たちを支配するのではないだろうか。
普段私たちが何を考え、何を思っているかはとても大切なことであろう。 私たちがいつも、怒りや憎しみや恐れを抱いて生きるなら何と不幸で哀れなことであろうか。私たちの生活には絶えずそのような否定的な思いを抱かせる事柄でいっぱいである。だが私たちが主の幻に生きるならば、主はそのような思いさえも変えて下さり希望に満ちた歩みをすることが出来るように変えて下さるのである。
ハバククは苦しんでいた。激しい怒りを抱いていた。 神の民であろうイスラエルの民がバビロンによって苦しめられている。誰も救い出す者はいない。バビロンは欲しいままに、思いのままにしている。ハバククは神に激しい怒りをぶつけている。なぜあなたは省みてくださらないのか。憐れみを注いで下さらないのか。主の御業はどこにあるのだろうか?
ハバククは注意深く神からの応答を待ち望む。神はハバククに答えられた。バビロンの悪もまた神によって裁かされる。遅くなることはない。ハバククは祈りのなかで神からの答えを頂いた。 私たちも同じように信仰の中で神からの答えを頂かなければならない。それが私たちが喜びを持って生きる秘訣である。
ハバククは幻を見たがじつは状況はもっと悪くなる。悪化する方向に進んでいく。
しかし、ハバククは神に祈るのである。感謝を神の御前に捧げるのである。ハバククは祈りの中で教えられたのである。神と神の世界に問題があるのでなく、ハバククは自分の中に神の愛とご計画を理解していない自分がいたことに気づかされたのである。
私たちが主の幻のなかに生きられない、主を信頼して生きることができないのはあまりにも自分の理解に悟りに頼り過ぎているからである。過信しているのである。高慢だからである。
主の幻に生きるということは主の前に謙遜になって生きる、歩むということである。私たちの日常のなかで起こる一つ一つの出来事に主の幻を見ていく者とさせられるよう願い祈りたい。