消したい自分にこそ感謝して(神学校週間)
2013-06-29
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。(一テモテ1:15)
今、私たちの教会は神学校週間のために祈っています。神学校で学んでいる学生たちを覚えて祈り、学びの支援のために献げていきます。福音を語る者としての使命を抱きつつ学びに励んでいることだと思うのです。
私自身の経験をいうと大変苦い思い出があります。私が神様に献身したのはもちろん救いを伝えていきたいという願いからでした。が、その献身の思いを育てていくことが脇に置かれてしまい、自分を良く見せようかとやっきになっていたのです。自分を他の学生たちと比べてしまいました。しかし、いちばん大切なことはイエス様の召命に応える者となることです。
過去の自分を消してしまいたい。なにも牧師に召される人だけではないでしょう。人であれば人に言えないような罪を犯したり、消したい過去があります。パウロはそうではありませんでした。だからこそイエス・キリストは私たちのところに来られたのだ。救いの恵みを誰よりも深く感謝して受取りました。パウロは罪があるところにはイエス・キリストの救いも豊かに注がれることを知っていました。罪深い者だと知ってこそイエス・キリストの福音が豊かにあらわされることを献身者の皆さんに知っていただきたいと願います。
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