鮫バプテスト教会| JR八戸線 鮫駅からすぐの明るい教会です

八戸市鮫町の日本バプテスト連盟所属のキリスト教会です

Archive for the ‘祈祷会’ Category

9月3日(水)夜の祈り会 マルコ5章25~34節 「あなたにはイエス様の声が聞こえないのか?」

2014-09-03

イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。 そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。 (マルコ5:30~32)

 

「信仰は孤独な戦いだ」という人がいるが本当でしょうか?私はそうは思いません。まったく反対で孤独から豊かな出会いへと招く神様の救いがあります。また「私は神様だけを見上げているので教会に行かなくても大丈夫だ」という人もいるようですが、まったくわかっていません。なぜ孤独な人生に戻ろうとするのですか。あなたにはイエス様の声が聞こえないのでしょうか。それとも聞こえないふりをしているのでしょうか。イエス様の声に答えるのが怖いのでしょうか。自分が必要としていたときに誰も答えてくれなかった。あのときと同じようにイエス様にも無視されるのではないかと思って怖いのでしょうか?

 

12年間も長血で苦しんでいる女性がいました。彼女の12年という月日は言葉で言い表せないほどに苦しみと痛みの日々でした。社会的にも特殊な病気ということで抹殺され、家族からも遠ざけられた孤独な日々、彼女の心は誰も信頼できなくなってしまい、自ら孤独に閉じ込めてしまいました。彼女は癒されれば十分と思っていました。しかし、イエス様はそうではなかったのです。

 

癒しよりも重要なこと。それは神様が彼女を愛していること。彼女の12年という月日の一瞬、一瞬に神様が共におられたことを知らせるためでした。彼女は孤独の中で生きるのでなく神様、人々とのなかで生きるのです。神様が私たちを招きます。ですが、私たちのほうで勝手に神様を招くかどうか決めているのです。教会に人々が集まってこないのも当然です。私たちにはイエス様の声が聞こえているのでしょう?それともイエス様の声なんか聞きたくもない。私が神様を呼ぶかどうか決めるのと頑なな心になっていないでしょうか。

 

 

 

9月3日(水) 昼の祈り会 箴言9章13~18節 「愚かさはもっともらしい賢さでやってくる」

2014-09-02

愚かな女は、騒がしく、みだらで、恥を知らない。 彼女はその家の戸口に座し、町の高い所にある座にすわり、 道を急ぐ行き来の人を招いて言う、 「思慮のない者よ、ここに来れ」と。また知恵のない人に向かってこれに言う、 「盗んだ水は甘く、ひそかに食べるパンはうまい」と。しかしその人は、死の影がそこにあることを知らず、彼女の客は陰府の深みにおることを知らない。 (箴言9:13~18)

 

 箴言は愚かな人にならないで知恵を得なさいと私たちに呼びかけています。愚かという言葉を聞いた時私たちは何を連想するでしょうか?「あの人は何もわかっていない」大切なこと、肝心なことは見えていない。わかっていないということでしょうか。神様もその通りだというでしょう。ですが、本当に私たちは愚かさをわかっているでしょうか。
 私たちは、外見や語り口のうまさ、などであの人は知的な人だな、賢い人だなと思うことがあるのではないでしょうか。雄弁に語るものなら。もう私たちは惹きつけられ骨抜きにされてしまうのです。しかし、その人の賢さは本当に賢さなのでしょうか。人を自分の思うがままに操るため、自分に惹きつけるための手段としてこの世のありとあらゆるものを使っているだけではないでしょうか。愚かな女は、町の高い所に居座り、真理を求める人たちに向かってもっともらしい言葉で誘う。と今日の箴言の御言葉は私たちに向かって警告をしています。
 聖書の世界は現実の世界です。教会においてもそうです。「ハレルヤ」と威勢よく発したり、反対に「神学的には」と知識できらびやかに飾るのです。語る者も聴く者を「主よ、真の知恵を私にあたえてください」と謙虚に祈り願うことが今の時代に生きる私たちに求められているのです。

8月31日 週報 泉のほとり

2014-08-30

聖書を読むということ

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(第二テモテ 03 16節)

9月は「教会学校月間」です。バプテストは教会学校を教会形成のなかで大切なものとして位置付けてきました。すべての年代が教会学校で神様の御言葉を学ぶ機会が与えられるようにと頑なに教会学校を守ってきました。そこには教職者は聖書を読んで教会員は読まなくてもよい。という教職者中心の教会に否を唱えてきた歴史があります。

救いは神の御言葉によってもたらされる。パウロは熱心なユダヤ教徒でした。律法を厳守しキリスト教徒を迫害してきました。キリストに出会ってパウロは回心しました。振り返る時に後悔があったと思います。自分はどう神の御言葉を読んできたのか。あらためてテモテに神の御言葉を読むことの意味と大切さを伝えるのでした。

「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。」(第二テモテ315)       牧師 林健一

8月27日(水) 夜の祈り会 マルコ5章21~24節 「ゆだねる信仰へ」

2014-08-27
そこへ、会堂司のひとりであるヤイロという者がきて、イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し、しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。 (マルコ5:22~23)

 私たちは、藁をすがる思いで神様のもとに来る。自分に起きた苦境から何とか助けてほしいからだ。もちろんイエス様は私たちの祈りにこたえてくださる。だが、イエス様の思いと私たちがこうあってほしいという願いは天と地のひらきがあるかもしれない。私たちの知らない、見ることができない世界、将来をイエス様は見ているからだ。
 神様にゆだねるということはこのような信仰だ。神様が全知全能であることを信じて必ず私たちの将来によい計画を用意して事を運んで下さることを信じること。今は事が進んでいないように思えても、悪くなるのではないかと思うことがあってもその先にある神様のよきご計画を信じて祈り続けること。今、与えられている神様からの言葉に答えて歩んでいくこと、これこそがゆだねる信仰である。

8月27日(水) 昼の祈祷会 箴言9章7~12節 神の知恵を得るために

2014-08-27
「あざける者を戒める者は、自ら恥を得、悪しき者を責める者は自ら傷を受ける。」 (箴言9章7節)
箴言は神様の知恵のすばらしさを語ると同時に、人間が神様の知恵をあざける者であることを語る。人はとかく他者からの訓戒、忠告に対して反抗し、挙句の果てに思慮をもって忠告する人に敵意を向ける。なぜか?神様の愛を否定した結果である。神様を神様としないで、己を神様とする人間は自分を絶対にするがために神様に対し、人に対しへりくだることができないのだ。
では、どうすれば神様の知恵をいただくことができるのか?
己に死ぬことである。
「思慮のないわざを捨てて命を得、悟りの道を歩め」と。 (箴言9章6節)
榎本保郎先生は「己に死ぬことなしに神様の知恵をいただくことはできないという。人間のちっぽけな頭で自分を救うこと考えてもどうにもならない。」本当にそのとおりだと思う。神様の知恵をいただくことができないのは自分の考えが一番だと思っているからだ。
榎本先生はこうも言う、「自分にきびしくするのではない。自分に死ぬのだ」私たちは「自分に死ぬ」と聞いてなんと厳しいことだと思う。しかし、死ぬことのほうが案外簡単ではないのか?自分の思い、考え、経験を放棄し、一切の思い煩いを全知全能の神様におゆだねすることこれほど私たちの心を平安にするものはないのではなかろうか。

8月24日 週報 泉のほとり

2014-08-22

 現状に満足せずに

「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」(テモテへの第一の手紙1 15節)

テモテへの手紙はパウロ晩年の手紙です。教会を迫害していたころの若かったパウロも老年になり最期を迎えようとしていました。年を重ねるほどにもう迷いはない。と思うのですが、パウロは反対にキリストとの交わりが深くなるほど内にある罪をはっきりと自覚していたのです。

キリストに救われた者とは、内にある罪をますます、はっきりと自覚する者なのです。罪をはっきりと自覚するところにイエス・キリストの救いの御業があらわされるのです。

クリスチャンの歩みは己の徳を高め、悟りをひらくものではありません。主の愛と聖さに照らされ、ますます謙遜にさせられる恵みある歩みです。謙遜になるのは主の栄光を見たからです。クリスチャンの謙遜とは人と比べて謙遜になることでなく主を見て謙遜になることです。ますます主の愛に照らされていく者とさせていただきたいものです。                  牧師 林健一

8月20日(水)祈祷会 マルコ5章18~20節 主があなたにしてくださったこと

2014-08-21

しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。 マルコ5章19節

聖書の神様はあなたにすばらしいことをしようとしておられる。しかも、あなたを愛し、憐れみの心をもって救おうと待っているのだ。私たちは何をして下さるかでその神様を信じるに価するか判断しようとする。けれども、それはまったく愚かなことではないか。あなた自身を愛している神様ならば、あなたのすべての必要、願い、思いに応える神様ではないのか。しかも、上から目線でなくあなたの声を聴き、あなたに語られる神様なのだ。そのような神様がどこにいるだろうか。

祈祷会 8月20日(水) 箴言9章1~6節 私を生かす知恵

2014-08-20
「思慮のない者よ、ここに来れ」と。また、知恵のない者に言う、 「来て、わたしのパンを食べ、わたしの混ぜ合わせた酒をのみ、 思慮のないわざを捨てて命を得、悟りの道を歩め」と。 (箴言9章4~6節)
私たちはより良い人生を歩みたいと願い、学びに一生懸命だ。私たちの周囲を見ても「自己啓発」や「キャリアアップ」に励む人たちがいる。反対にどうせ駄目だとあきらめて人生楽しく過ごせばいいという人たちもいる。どちらも年をとれば何の役にも立たないものになる。なぜなら、これらの知識や楽しみは気休めになってもあなたを生かす知恵にならないからだ。まことに私を生かす知恵などあるのだろうか?神様は私たちにメッセージを送る。「あなたを生かす本当の知恵があるよ」けれども、そのためにはあなたの今、持っている、あなたが生かすと思いこんでいる知恵を捨てなければまことの知恵は見えてこない。とも言っている。

8月17日 週報 泉のほとり

2014-08-16

あなたは教会でも世の中でも同じ姿ですか

「良い木が悪い実をならせることはできない、また悪い木が良い実をならせることもできません。」(マタイ718節)

 

神様から祝福を受ける秘訣は私たちが一貫してイエス様を信じる、しかも信じることと生活することが一致していなければなりません。イエス様は弟子たちに向けていったこの言葉もそうです。木と実は切り離すことはできないし一致してこそ実をならすことができます。ですからヨハネ福音書でイエス様は弟子たちこういわれたのです。

 

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ1545

いつもイエス様につながった生活をしましょう。            牧師 林健一

8月10日(日) 週報 泉のほとり

2014-08-09

平和を祈って ―平和礼拝―

「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ59節)

 

ヘイトスピーチという言葉を皆さんは知っているでしょうか。

「《ヘイトは憎悪の意》憎悪をむき出しにした発言。特に、公の場で、特定の人種・民族・宗教・性別・職業・身分に属する個人や集団に対してする、極端な悪口や中傷のこと。」

今、日本でヘイトスピーチがひろがっています。残念なことですが特定の国の人たちに対して憎悪・敵意向きだしの言葉を投げかけています。世界から日本は果たして人権を尊重している国なのか?という疑問の声が聞こえてきています。

私たちは世界からのメッセージに何と答えたらよいのでしょうか?「いいんじゃない」「日本最高」「世界のやつらうぜえ」と平気で言いそうな危うい状況を私は今の日本に感じます。これは何よりも神様から私たち日本のキリスト教会に問われていることではないでしょうか?

もう何年も前のことですが日本のキリスト教会が国の政策によって一つにされたことを牧師を目指している神学生の方に話しのなかで話題にしたら「ああ、そうなんですか」と人ごとのように言っていたことに驚きと歴史を知らないでどうしてこれからの教会を担うことができるのだろうかと思ったことがありました。聖書こそ人間の過ち、罪深さが描かれていますが私たちは神様が語るメッセージを聞き落とす過ちに再度陥っているのかもしれません。            牧師 林健一

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