鮫バプテスト教会| JR八戸線 鮫駅からすぐの明るい教会です

八戸市鮫町の日本バプテスト連盟所属のキリスト教会です

Archive for the ‘祈祷会’ Category

9月28日 週報 泉のほとり

2014-09-26

目からの福音

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について

(ヨハネの第一の手紙11節)

山形村チャペル会報より

「百三歳で天に召された齊藤久吉牧師は、昭和五年に大阪から東北の宮城県塩釜の教会へ着任されました。すぐ隣村の利府村での農村伝道を開始されました。その経験からの伝道論は次の内容です。

『都会では福音は耳から入ります。しかし、農村では目から福音は入ります。見える福音が大切です』と

「目から入る福音」とは何でしょうか。それは、まさにイエス様が人となられた。私たちの目に見える存在として、手でふれることができる存在としてこの世界に来て下さったことです。

教会は地域の人々に「目に見える福音」とならなければなりません。その一つの方法が「教会学校」です。大人から子どもまで共に集まって神様に祈り、聖書を学ぶ、最初は奇異に見えるかもしれません。しかし、そこに神様がおられることを知るようになるのです。 牧師 林健一

9月25日(水) 夜の祈り会 マルコ6章7~13節 「信仰はシンプルなもの」

2014-09-25
 また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、 ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。(マルコ6章7~9節)
 
 イエス様は弟子たちを派遣した。それは福音を人々に告げ知らせるためだった。その際、イエス様は弟子たちに「つえ一本のほかには何も」持ってはいけないと言われ弟子たちを送り出した。

(さらに…)

9月24日(水) 昼の祈り会 箴言10章9~15節 「まっすぐに歩く」

2014-09-25

まっすぐに歩む者の歩みは安全である、しかし、その道を曲げる者は災にあう。 (箴言10章9節) 

  まっすぐにということは、一途に、純粋にという意味がある。まだ、子どものとき「寄り道しないで、まっすぐ家に帰ってきないさいよ」とよく言われた。誰もが記憶にあることでないだろうか。
 たまに寄り道をすることも、時には気分転換にいいだろう。しかし、いつも寄り道をしているならそれはいかがなものだろうか。私たちの人生に寄り道をしている時間はそう多くはない。ゆっくりでも一歩ずつ、まっすぐに進んでいくならその人の人生は神様にあって豊かにされるだろう。

9月21日 週報 泉のほとり

2014-09-20

互いに学びあう教会学校

そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。

(テサロニケⅠ167節)

教会学校は教える者と教わる者がいて、教会学校という時間の中だけで聖書を学ぶ、そう思ってはいないでしょうか。聖書を学ぶのはちょっとと思う方もいるかもしれません。

恵みをもっと体験したい。そう思う人はぜひ教会学校に参加してください。多くの恵みを体験することができます。教会学校は聖書を知識として学ぶのでなく、クリスチャンとしての歩み方をお互いに学び、神様の恵みを体験できる場所です。

一緒に学んでいる仲間がどう聖書を読み、祈り、実際の生活のなかでどう試練を乗り越えていったか、私たちは兄弟姉妹の歩みをとおして多くのことを学ぶことができます。私たちがお互いに謙虚に学びあうときに、すでにそこは教会学校なのです。      牧師 林健一

9月17日(水) 夜の祈り会 マルコ6章1~6節  救いなんていらないのだ

2014-09-18

そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。 (マルコ6:5~6)

イエス様が自分の郷里にて神の教えを人々に伝えました。しかし、人々はイエス様の言った内容よりイエス様につまづきました。

この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。 (マルコ6:3)

人々はイエス様を幼いころから知っていました。人間はどうも知らないことに対して恐れと同時にプライドが傷つかれることに対して我慢ならないようです。自分がよく知っている人から言われるなら何くそ、お前に言われる筋合いはない。という高慢な心があるのです。ある日、突然話題になる人がでてくれば、「幼いときは」と得意気に話す人が出てきます。神を知ることより自分はいろいろなことを知っているのだと

イエス様はそういう人々の前で奇跡を起こすことができなかったと聖書は語ります。救いの御業がなされなかったのです。このことは私たちにとって何を語りかけているのでしょうか?

 

9月17日(水) 昼の祈り会 箴言10章5~8節 「あなたはほんとうに賢いのか」

2014-09-18

心のさとき者は戒めを受ける、むだ口をたたく愚かな者は滅ぼされる。 (箴言10章8節)

箴言において知恵ある生き方とはどういう生き方かを私たちに教えます。世の中は神様を信じることは愚かな生き方であると信仰をもって生きる人を馬鹿にします。なぜでしょうか?自分は賢いという思いがあるからです。なぜ賢いと思いたいのでしょうか?そんなに知恵がないことが恥なのでしょうか?

知恵がないことを隠して反対に愚かさがあきらかになってしまう。現代人はまさに愚かさをあらわしながらもその愚かさに気づいていないのです。病気になったとき、ある日突然災いが自分にふりかかってきたとき、究極的には死をむかえなけれなならないとき、私たちはどのようにすればいいのか。まったくといっていいほど備えができてません。「そんなものは私にこないよ」というばかりの愚かさです。

いつかではなく、必ずくる「時」をみさだめつつ豊かな人生を生きるために謙虚に聖書の言葉に耳を傾けたいものです。それともあなたは「馬鹿みたい」となおも自分を欺き続けていく人生を選ぶのでしょうか。

9月14日 週報 泉のほとり

2014-09-13

人間の高慢さ

「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。(ヨハネ832節)

似たような言葉が国立国会図書館の目録ホールにあります。「真理がわれらを自由にする」という言葉ですが、ヨハネ8章32節に由来したものだと言っています。

しかし、「あなたがたに」と「われらを」では天と地ほどの違いがあります。イエス様は「真理はあなたがたを自由にする」神からの真理が私たち人間を自由にするのであって人間が真理を知って自由にされるのではありません。どこまでも人間は愚かであり神を知ってはじめて自由にされるのです。

バプテストの教会学校は子どもから成人まで共に聖書を学び合います。卒業はないのです。とかく私たちは自分で学ぶという高慢な姿勢になります。だから真理を知ることができないのです。神を知って自由にならないのです。どこまでもへりくだり神が私を自由にして下さるのだという謙虚な思いで聖書を読みたいものです。

牧師 林健一

9月10日(水) 夜の祈り会 マルコ5章35~43節 「恐れることはない。ただ信じなさい」

2014-09-10

イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。 (マルコ5:36)

イエス様がヤイロに語られた言葉です。彼は愛する娘が病気で苦しんでいる。必死にイエス様にお願いして家に来ていただく途中でした。しかし、娘が亡くなったという知らせが彼のもとへ届きます。

イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。 (マルコ5:35)

ヤイロはじめまわりにいた人々はもうだめだと絶望しあきらめました。悲しみと痛みしかありません。しかしイエス様はそのようなときに「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われたのです。

私たちにもイエス様は同じことを言われます。ヤイロが信じていたもの、それは自分がイエス様にお願いすることによって娘の病気が治ることでした。私たちも同じことをイエス様にお願いしているのではないでしょうか。「私はこういうふうにして、このように」と自分のやり方、時、結果を求めるのです。

しかし、イエス様はそうでなくご自分のやり方、時をもって私たちに御業をなされます。私たちは何を信じるのか?自分の方法、時を信じていたのではないか?イエス様は私たちに求めます。「私を信じなさい」と

9月10日(水) 昼の祈り会 箴言10章1~4節 あなたは家族に何をもたらすのか

2014-09-10

「ソロモンの箴言。知恵ある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみとなる。」(箴言10章1節)

聖書における神の言葉は私たちが守れるものでは到底ありません。むしろ神がどのように私たち人間を見ておられるのかを知ることができます。ですから聖書を自分の向上心のために読む。決して悪いことではありませんが、そのようにして読み続けていくときに私たちは聖書の言葉のように正しく生きることができない人間だということを知るのです。

 

己の姿を知ってはじめて私たちは救ってくださる方が必要だと神を求めます。あなたはどうでしょうか。「愚かな子は母の悲しみとなる」この言葉はどれだけ母が愛するわが子のことで嘆き、苦しみ、悩んでいる姿を描写しています。母を苦しめている愚かな子ども、それは自分の愚かな姿が見えず、家族を苦しめていることなど知る由もないのです。しかし、神は母の苦しみを見ているのです。母の苦しみに寄り添っているのです。

 

現代の日本は、まさに聖書の言葉によって我が身を照らされる必要があります。人生に行き詰まりをおぼえているならぜひ聖書の言葉を読み我が身を照らしてみてください。そのときあなたは本当の自分の姿を知り、神に救いを求めるようになります。

9月7日(日) 週報 泉のほとり 

2014-09-05

イエス様なしの教会学校にしてはいけない

「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ281920節)

9月は教会学校月間です。イエス様が登場する福音書にはいつも弟子たち、人々に教えられるイエス様の姿がありました。どこへ行っても、疲れていてもイエス様は神の国のことを教え続けました。

イエス様の教会学校はいつも楽しい学校でした。なぜなら神の国を人々は見ること、聞くことができたからです。イエス様の教会学校は神の国を体験する学校でした。神の愛を知る学校でした。

今の教会学校はどうでしょうか?イエス様不在の教会学校になっていないでしょうか?お互いに学び語りあおう、決して悪いことでありません。しかし、イエス様の教会学校は神の国を見ることができる場所です。神の愛を体験できる場所です。イエス様が喜ばれる教会学校にならなければなりません。私たちはこの世における学校という概念を打ち破る神の国の教会学校を建て上げるのです。              牧師 林健一

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