Archive for the ‘祈祷会’ Category
9月20日 泉のほとり
逆境のなかで養われる信仰。
「イエスは彼らに言われた、『あなたがたの信仰は、どこにあるのか』。彼らは恐れ驚いて互に言い合った、『いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは』。(ルカ8:25)
イエス様と弟子たちが舟に乗ってガリラヤ湖を渡ろうとしたときの出来事です。突然、突風が湖に吹きおろしてきて彼らの乗っていた舟は水がかぶって転覆しそうになったのでしょう。
弟子たちはイエス様を起こして助けを求めました。弟子たちのなかに漁師もいましたがどうにもできなかったようです。イエス様は起き上がって、風と荒波とをお叱りになりました。すると不思議なことに風と荒波はまたたくまに止んで静かになりました。
イエス様は弟子たちの不信仰をお叱りになりました。弟子たちは己の不信仰を嘆いたことでしょう。でもイエス様は知っていたのではないでしょうか。どんな人も最初から信仰があるわけではないことを。
弟子たちは、災難に遭遇してイエス様を呼び求めることによって イエス様が真に神の子でありこの世界を治めておられるお方であることを知りました。私たちも同じであります。逆境のなかで私たちは イエス様を呼び求め、このお方の御力を知るのです。 牧師 林健一
9月13日 泉のほとり
御言葉にはいのちがある。
『ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ』(ルカ8:8)
イエス様が天国について一つの喩をもって群衆に話されました。種まきの話です。種まきが種をまきに出ていった。種まきによってまかれた種はいろいろな種類の地にまかれました。かれた種は空の鳥に食べられてしまったり、枯れたり、せっかく芽を出したのですが、いばらにふさがれてしまったりとなかなか実を結ぶことができません。それでも種まきは忍耐強く種をまき続けます。
すると、ある種は良い地にまかれて、はえ育ち100倍の実を結びました。イエス様は良い地に落ちたのは「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」(ルカ8:15)と言われました。
種とは御言葉・神様の言葉です。私たちが聖書の言葉である神様の言葉を正しい良い心でしっかり守り、忍耐を持って聞き従う時に必ず実を結ぶとイエス様は約束してくださいます。
牧師 林健一
9月6日 泉のほとり
神様の恵みは罪に勝る。
「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。(ルカ7:48)
神様の恵みは罪に勝ちます。どれほど深刻な罪人も、神様の赦しを経験すれば新しい存在になります。罪を犯した女は、イエス様に出会って非常に感想し、自分の涙でイエス様の足を洗い、髪でぬぐいます。普通の方法では自分の思いを表現することができないため、極端な方法で愛を表したのです。
今週、祖父母を包丁で殺害して現金8万円を奪った少年の控訴審判決が言い渡されました。事件の背景には、母親が育児放棄し、公園での生活を強いられるなど、少年の壮絶な生い立ちがあったことが浮かび上がってきました。
少年は「お金は、母とをつなぐ鎖のようなもの。判決はどうでもいい。でも、自分と同じような境遇の子がいたら救ってほしい」シモンのようにただ人を罪に定めるだけでは人は救えません。真の愛がこの罪の世界には必要です。この愛を与えることのできるお方は神様ただお一人だけです。 牧師 林健一
8月30日 泉のほとり
祈りの祝福
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(詩編46:10)
私たちが困難にぶつかったときどのように問題を解決していけばよいのかただ一つの道が聖書には示されています。
第一に心を静めることです。問題が起きたとき私たちの心には嵐のような不安が吹き荒れます。けれども神様は静まっていなさいと言われるのです。右往左往してはいけません。余計問題が大きくなるだけです。神様の前に信頼して心を静めていきましょう。
第二に神様を知ることです。私たちは人生のなかにおいて計画や予定を立てて物事を進めて行きます。しかし、すべてが計画通りいくわけではないのです。必ず予測不能な事態が起こります。でも大丈夫なのです。なぜなら永遠の神様が私たちと共におられ守り、導いてくださっているからです。この神様がおられることを知るなら私たちの人生は何と平安であり、主の守りがあることを知るのです。
牧師 林健一
泉のほとり 8月23日
自分のためだけでなく
「こうして、ペテロは獄に入れられていた。教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた。」(使徒行伝12:5)
「礼拝出席強調月間」である8月も残り少なくなってきました。私たちは家族のために身近な人たちのことをおぼえ祈ってきました。とかく祈りとは私の必要なことだけを祈ることに終始してしまいがちです。しかし、本当の祈りとは私以外の愛する人たちのために祈ることではないでしょうか。使徒行伝12章では牢獄に囚われていたペテロのために教会の兄弟姉妹たちが熱心に神様に祈っていた姿が描かれています。先週行われた野田村ボランティアも48回目です。この間多くの教会、兄弟姉妹たちが熱心に鮫教会のために祈って下さっていたのだと思います。私たちの歩みはとかく「私が」ということに陥り、いかに周囲の人たちが祈ってくれていたことに関心も感謝もないのです。「誰も私のために」なんて思っているあなたは間違っています。イエス様はあなたのために祈って下さっているのです。そこに私の心が向く時にあなたは神様の愛を体験することになるのです。 牧師 林健一
8月16日 泉のほとり
お手本の祈り 百卒長の信仰
「イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」(ルカ7:9)
教会の祈り会は恵みのときです。神様の御言葉によって新たにされて力強い信仰の歩みができます。祈り会での恵みを体験してほしいと思います。祈りはどんな困難な状況でも打ち破ります。百卒長の部下が重い病気でイエス様に癒していただくために家に来ていただくようにお願いしたのです。ところが家の一歩手前で百卒長はイエス様に「ただおことばだけをいただきたいのです。」と友人をとおしてお願いしました。百卒長はイエス様に来ていただくのが面倒くさいとかではなく自分は罪人のゆえにイエス様を家にお入れする資格がないことを正直に告白したのです。そればかりかイエス様の権威に服従したのです。百卒長は普段から祈っていたのです。それゆえにイエス様が神の子でありどんな病でも癒すことがお出来になると信じることができたのです。 牧師 林健一
泉のほとり 8月9日
完全な平和を求めて(平和礼拝)
「それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。」(ルカ6:48)
聖書の告げる平和とは、単に戦争のない状態をいうのではありません。単に政治的に平穏な状況を指すのでもありません。何ものも欠如していない全く充足した状態を指します。生のあらゆる領域にわたって神のみこころにかなった望ましい状態にあり、造られた命が幸いに満たされている様にあることなのです。強い者が弱い者を抑圧しているが故の静穏さや、著しい貧富の上にたった誰かを犠牲にしての繁栄というのは、聖書のいう平和にあたりません。完全は平和とは、人間の努力によって実現するというものでなく、根本的には神から与えられるものなのです。まず、神との和解によって私たちの心に平和が与えられてはじめてこの世界にゆるぎない平和を築くことができるのです。神様に依り頼むならば私たちはゆるぎない岩の上に平和を築くことができるのです。 牧師 林健一
泉のほとり 8月2日
平和を願って
「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9)
8月に入りました。今年も日本ではこの月に平和を祈り願う人たちが集い世界の平和を祈ります。バプテスト連盟でも7・8月を「平和宣言推進月間」として教会も祈ります。
「平和」をつくり出す使命は教会の最も大切な使命であります。主イエス様は「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」と言われました。「平和」をつくり出すとはどういう意味でしょうか?主イエス様は神さまと私たちとの間に平和をつくり出す、また私たちの間、自身の内に平和をつくり出すことが真の平和をつくるのだと言われたのではないでしょうか。
「平和」、は旧約聖書のヘブル語では有名な「シャローム」という言葉です。これはもともと「良い幸いなくらし」という実際的な意味です。この語は旧約では、神さまの創造時の人間への思い、ひいては罪人の救われた状態、恵みの契約が個人の心・人生・家庭・国家・世界に生み出す現実的実りを表しました。神さまがこの世界にお与えくださる「平和」をいただき、共に「平和」の祈りをささげてまいりましょう。 牧師 林健一
7月26日 泉のほとり
礼拝出席強調月間を迎えるにあたり
「ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。」(使徒行伝16:31)
8月より「礼拝出席強調月間」に入ります。この月は特別に家族や知人をおぼえて祈り、礼拝に積極的にお誘いしましょう。
使徒行伝16:31の御言葉は看守がパウロに「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」(30節)との問いに答えたものです。パウロとシラスは、業ではない、信じるだけで救われると答えました。これは、信仰義認の教えです。あなたは、主イエスを信じれば救われる。あなたの家族も、主イエスを信じれば救われる。つまり、あなたもあなたの家族も、同じ信仰の原理によって救われるということです。
「それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。」(32節) 8月、多くの人が「福音」を聴く機会が与えられますよう共にお祈り致しましょう。
牧師 林健一
7月19日 泉のほとり
神さまのつくられた世界
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。」(創世記1:31)
今日はサマーキャンプです。神さまのつくられた大自然のなかで思いっきり楽しみましょう。神さまは天地創造の業を終え、すべての造られた物をご覧になりました。それらを「はなはだ良かった」と言われました。
神さまの造られた物はすべて良きものであり、悪い物は一つもありません。私たちが信仰を持ってこの世界を見るときにすべての物は神さまの愛で満ちていることを知るでしょう。
この世界がつまらないと思うならば、それはこの世界がつまらないのではなくあなたの心がつまらない、満たされないのです。あなたの心を神さまの愛で満たしていただきましょう。
あなたの心が神さまの愛で満たされるなら私たちの目の前にある世界が違って見えてくるのです。
牧師 林健一
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