9月17日(水) 夜の祈り会 マルコ6章1~6節 救いなんていらないのだ
2014-09-18
そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。 (マルコ6:5~6)
イエス様が自分の郷里にて神の教えを人々に伝えました。しかし、人々はイエス様の言った内容よりイエス様につまづきました。
この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。 (マルコ6:3)
人々はイエス様を幼いころから知っていました。人間はどうも知らないことに対して恐れと同時にプライドが傷つかれることに対して我慢ならないようです。自分がよく知っている人から言われるなら何くそ、お前に言われる筋合いはない。という高慢な心があるのです。ある日、突然話題になる人がでてくれば、「幼いときは」と得意気に話す人が出てきます。神を知ることより自分はいろいろなことを知っているのだと
イエス様はそういう人々の前で奇跡を起こすことができなかったと聖書は語ります。救いの御業がなされなかったのです。このことは私たちにとって何を語りかけているのでしょうか?
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