8月24日 週報 泉のほとり
2014-08-22
現状に満足せずに
「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」(テモテへの第一の手紙1章 15節)
テモテへの手紙はパウロ晩年の手紙です。教会を迫害していたころの若かったパウロも老年になり最期を迎えようとしていました。年を重ねるほどにもう迷いはない。と思うのですが、パウロは反対にキリストとの交わりが深くなるほど内にある罪をはっきりと自覚していたのです。
キリストに救われた者とは、内にある罪をますます、はっきりと自覚する者なのです。罪をはっきりと自覚するところにイエス・キリストの救いの御業があらわされるのです。
クリスチャンの歩みは己の徳を高め、悟りをひらくものではありません。主の愛と聖さに照らされ、ますます謙遜にさせられる恵みある歩みです。謙遜になるのは主の栄光を見たからです。クリスチャンの謙遜とは人と比べて謙遜になることでなく主を見て謙遜になることです。ますます主の愛に照らされていく者とさせていただきたいものです。 牧師 林健一