9月3日(水)夜の祈り会 マルコ5章25~34節 「あなたにはイエス様の声が聞こえないのか?」
イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。 そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。 (マルコ5:30~32)
「信仰は孤独な戦いだ」という人がいるが本当でしょうか?私はそうは思いません。まったく反対で孤独から豊かな出会いへと招く神様の救いがあります。また「私は神様だけを見上げているので教会に行かなくても大丈夫だ」という人もいるようですが、まったくわかっていません。なぜ孤独な人生に戻ろうとするのですか。あなたにはイエス様の声が聞こえないのでしょうか。それとも聞こえないふりをしているのでしょうか。イエス様の声に答えるのが怖いのでしょうか。自分が必要としていたときに誰も答えてくれなかった。あのときと同じようにイエス様にも無視されるのではないかと思って怖いのでしょうか?
12年間も長血で苦しんでいる女性がいました。彼女の12年という月日は言葉で言い表せないほどに苦しみと痛みの日々でした。社会的にも特殊な病気ということで抹殺され、家族からも遠ざけられた孤独な日々、彼女の心は誰も信頼できなくなってしまい、自ら孤独に閉じ込めてしまいました。彼女は癒されれば十分と思っていました。しかし、イエス様はそうではなかったのです。
癒しよりも重要なこと。それは神様が彼女を愛していること。彼女の12年という月日の一瞬、一瞬に神様が共におられたことを知らせるためでした。彼女は孤独の中で生きるのでなく神様、人々とのなかで生きるのです。神様が私たちを招きます。ですが、私たちのほうで勝手に神様を招くかどうか決めているのです。教会に人々が集まってこないのも当然です。私たちにはイエス様の声が聞こえているのでしょう?それともイエス様の声なんか聞きたくもない。私が神様を呼ぶかどうか決めるのと頑なな心になっていないでしょうか。