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8月30日 主日礼拝メッセージ 「正しく聞くことと正しい反応」 ルカによる福音書7章24~35節

2015-08-31

聞いても得られない私たち

ワシントン・ポスト紙の発案で世界的なヴァイオリニストのジョシュア・ベル(ヨシュア)グラミー賞を受賞した。はある実験をしました。自分の正体を知らせずに、ワシントンDCの地下鉄で演奏をしたのです。専門家たちは、厳重な安全対策をするようにと、実験の主催者側に忠告をしました。大ぜいの人が押し寄せるだろうと予想したからです。彼の駅での演奏の二日前、彼のボストンでのコンサートのチケットは、一枚一万円するものの全て売り切れました。

ジョシュア・ベルは、3億円もの価値のあるストラディバリウスのヴァイオリンで、レパートリーの中で最も美しい6曲を演奏し始めました。最高のヴァイオリニストが世界最高のヴァイオリンで、美しい演奏をしたのです。

ところが、だれも立ち止まりませんでした。時折、親の服のはしを引っ張って、足を急がせるだけでした。ただ一人の女性だけがジョシュア・ベルだと気づいて、立ち止まって演奏を聞きました。演奏後、その女性が払った20ドル(日本円2000円)は、ほかの人が差し出した金額の合計よりも多いものでした。人々はみな急ぎ足で、ジョシュア・ベルの前を通り過ぎて行きました。だれもが、それぞれの仕事で忙しかったからです。世界最高の美しい音楽があっても気づかない人たちのように、もしかすれば世界最高の価値あるものが私たちの目の前に置かれたとしても一生、いや、永遠に気づかないのはとても残念なことです。

 

イエス様は言われました。

31節 だから今の時代の人々を何に比べようか。彼らは何に似ているか。

32節 それは子供たちが広場にすわって、互に呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』と言うのに似ている。主は、今も演奏しておられます。しかし、私たちはその音を聞くことも、聞かないこともあります。「耳のある者は聞きなさい。」

神様の言葉を聞いてもわからないばかりか何の益も得ることができないでいる私たちです。どうしてだろうか?どうしたら神様の言葉から恵みを受けていくことができるのだろうか? 今日イエス様の御言葉から聞いていきたいと思います。

 

御言葉を聞く正しい目的を知ること

まず第一に神様の御言葉を聞く正しい目的を知ることです。

御言葉を聞く聖書を読む目的は何でしょうか?御言葉は聞いても聞かなくてもいいものではありません。私たちが罪から救われるためには御言葉を聞くことは絶対必要なものです。

御言葉を聞く正しい目的とは私たちが罪を知って神様に立ち返り癒されることです。

 

24節 ヨハネの使が行ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。 25節 では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮している人々なら、宮殿にいる。

バプテスマのヨハネの弟子たちが行った後にイエス様はヨハネについて群衆に語りはじめられました。それは問いかけといってもよいでしょうか?

「あなたがたは何を見に荒野の出てきたのか?」イエス様は、この群衆に「あなたがた」と語りかけます。この時、イエス様の声を聞いた聴衆の中には、直接ヨハネから洗礼を受けた者たちもいました。

イエス様は問います。

「あなたがたがわざわざ荒野に出て行ったのは、風に揺らぐ葦のようにか弱く、時代の権力に翻弄されるような不確かな存在を見るためだったのか。そんなはずはないだろう。それとも、自分たちとはまったく別世界に住まい、「きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮らしている人」、時の王様、ヘロデ王でも眺めるかのようにそこへ行ったのか。それならば、「宮殿」に向かったはずで、「荒野」なんかに行く必要はなかったはずだ。

 

イエス様の言葉は今の私たちにも同じように問いかけているのです。

私たちは何を見に、ここに来たのだろうか。時代の風向きによって揺り動かされる、風見鶏のような存在か。それならば、教会に来る必要などない。それとも、自己の欲望を満たした自信に満ちあふれた存在なのか。それならば、テレビを見ていればよい。私たちは何を聞きに来たのかはっきりと目的を知らなければなりません。イエス様はそれをはっきりと私たちに示してくださいます。

26節 では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。 27節 『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。28節 あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。 29節 (これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。 30節 しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした。)

 

イエス様はヨハネについて多くを語りつつ、しかし、実は、イエス様の周囲に集う私たち信仰者はいったい何者であるかを証言してくださっているのです。

しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。

イエス様が言われた「神の国で最も小さい者」とは、私たち信仰者のことなのです。ヨハネはイエス様が到来される道を備えました。ですから預言者以上の者であると言われたのです。ヨハネは神の国、イエス様を指し示したのです。けれども、今、あなたがたはすでに神の国の只中にいるではないか。神の恵みの只中にいるではないかと、そうです。私たちはすでに神の恵みのただ中にいるのです。私たちはいつまでも右往左往していないでイエス様の恵みのなかにどっぷりとつかっているのだと、その恵みのなかでイエス様の言葉を聞いているのです。何と幸いなことでしょうか。しかし、私たちの不信仰がイエス様の御言葉を力ないものにしてしまっているのです。

 

ですから御言葉に対する正しい反応が必要です。

正しい反応とは自分のプライドを捨て神様の御前に謙遜になることです。

正しく聞くことは自分に向くのでなく語られる声の方向に耳を傾けることです。全身を向ける

プライドと固執を捨てなければ、よい御言葉を聞いても訳に立たないばかりか、かえって心を高慢にますます神様に対して頑なになってしまいます。御言葉を自分に都合よく解釈して、御言葉の真意とは違う反応を見せるからです。

 

32節 それは子供たちが広場にすわって、互に呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』と言うのに似ている。 33節 なぜなら、バプテスマのヨハネがきて、パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしないと、あなたがたは、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、 34節 また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。 35節 しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する」。

 

イエス様は子どもたちが二組に分かれて座っている。一方は、婚礼の祝宴の笛を吹く。しかし、相手は婚礼ごっこに応えて踊ってくれない。そこで、駄々をこねる。今度は逆の側が、葬式ごっこを誘いかけて、弔いの歌を歌ってみせる。しかし、相手は泣き真似をしてくれない。そこで文句を言う。ヨハネとイエス様に対する、パリサイ人と律法学者たちの態度は、このように子どもじみた姿だというのです。自分のほうで遊びのルールを設定し、相手が期待通りではないとあれこれと文句をいうだけのような子どもの態度だと言われます。

 

神様の悲しみをそのまま生活に表したバプテスマのヨハネの禁欲に対しては、「あれは悪霊にとりつかれている」と、勝手に婚礼の笛を吹いて駄々をこねる。今度は反対に神の国の喜びの祝宴を示すように、イエス様が生活全体をもって喜びを表して飲み食いすると、「見ろ、あれは大食いで大酒のみだ。取税人や罪人の仲間だ。」と、今度は葬式の歌をうたいながら参加しようとはしない。そしてヨハネとイエス様、二人の生活態度を批判し攻撃することで、自分たちが参加しないことを正当化するのです。

私たちもパリサイ人や律法学者たちのように自分のルールを正当化してしまい、あの人は余裕があるから奉仕ができるのだとか、あの人はこうだからと言い訳していつまでも自分の問題を棚上げしているのです。

もし私たちの正しさ、それはプライドでしょう。そこに固執するなら神様の言われたとおりに救いはないのです。

パウロがユダヤ人たちに語りましたが

使徒行伝

28:24 ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。

28:25 互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。

28:26 『この民に行って言え、/あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。

28:27 この民の心は鈍くなり、/その耳は聞えにくく、/その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、/耳で聞かず、/心で悟らず、悔い改めて/いやされることがないためである』。

28:28 そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。

 

私たちはせっかく神様の御言葉を聞いているのですから今一度、御言葉を聞く正しい目的を知り、御言葉に対する正しい反応を持ちたいものです。

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