1月4日 主日礼拝メッセージ 創世記49章8~21節 「子どもたちの特性に応じた祝福の祈り」
新しい年を私たちは歩みだしました。目標を立てあれも、これもしたい。しかし、気をつけないと今までの失敗や、挫折したことのやり直し、取り返しの気持ちが先走ってしまいます。結局無駄な努力で同じ失敗の繰り返しをしてしまうことがあります。年を重ねているのに、昨年と同じことをしようとする人がいます。
クリスチャンの人生の歩みはやり直しではありません。まったく新しい始まりの連続です。神様はそのときにしかない主の御業を私たちに体験させて下さいます。私たちは失うことが怖くて神様が与えてくださるせっかくのチャンスを逃してしまうのです。
ちょうど、イエス様が話して下さったタラントのたとえに登場してくる1タラントの人のように主人からいただいた1タラントのお金を土に埋めてしまうのです。その当時の常識から見れば彼はもっともまともなことをしたわけですが、(土に隠すことが財産を守る最善の方法でした。)
しかし、彼のした方法は主人の望んだことではありませんでした。私たちも神様の御心ではないのに最善だと決めつけ行動してしまいます。では、私たちはどうしたら自分にとって正しい判断、適正にあった道を歩むことができるのでしょうか?ヤコブの子どもたちへの祝福と祈りの言葉をとおして学んでいきましょう。
49:8 ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。あなたの手は敵のくびを押え、/父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。
49:9 ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、/雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。
49:10 つえはユダを離れず、/立法者(統治者・王権)のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。
49:11 彼はそのろばの子をぶどうの木につなぎ、/その雌ろばの子を良きぶどうの木につなぐ。彼はその衣服をぶどう酒で洗い、/その着物をぶどうの汁で洗うであろう。(豊かさ)
49:12 その目はぶどう酒によって赤く、/その歯は乳によって白い。(健全な姿)
己の義でなく神様の義に依り頼む者に神様の祝福・憐れみはきます。
ユダは兄弟たちのなかでもヨセフ、いや、ヨセフ以上の祝福の言葉を受けます。ユダ(たたえる)は、兄弟たちのなかでたたえられ、他の子らはユダの前にひれふすようになります。獅子(力・威厳)のような力を発揮し、彼の権威は永遠に離れず、将来の王権(つえ)古代中近東では王の姿を表すのに羊飼いという言葉を使いました。)は彼から出る。ユダの子孫は、ぶどう木につながれたろばや雌ろばの子がいくら食べても十分なほどの、豊かな安定と繁栄を受ける。というのです。ユダが受けた祝福の意味とは何でしょうか?アブラハム契約(12章)の祝福の継承です。長男ルベンでなく、ヤコブの寵愛を受けたヨセフでもなくアブラハム、イサク、ヤコブに続いたアブラハム契約の祝福は4番目のユダに受け継がれていくのです。
ユダがそのような祝福を受けた理由は何でしょうか?彼は兄弟たちのなかでもルベンに劣らずだらしなく、(タマル事件)またシメオンやレビに劣らず残忍かつ攻撃的な人でした。ヨセフをエジプトに売ったのも彼でした。そのことで父ヤコブを欺きました。
しかし、同時に自分の罪を認めることができる人でもありました。彼はベニヤミンを守るために過去に犯した罪をヨセフの前で告白することができました。また、タマルを通して自分の過ちが明らかになったときは、これを正直に認めました。
ユダへの祝福の宣言から教えられることは、彼の素直な心と姿勢が神様の心を動かしたということです。同じクリスチャンでも、同じ教会員であってもその人、その人の心と姿勢を神様は見て、答えられるということではないでしょうか?やはり神様は私たちに公平に働かれるお方であることを知らなければなりません。そして、ユダの子孫からメシアが誕生して全世界を救うのです。ユダに与えられた祝福は、まさに祝福を受ける資格のない者が神様の愛と憐れみによって祝福され、引き上げられるということです。ユダが祝福される姿から私たちもまた神様の憐れみによって引き上げられていくのだという希望を持たなければなりません。神様の祝福は必ず時がくれば実現します。今はそうでなくても必ずなるのですから、希望を持ってしっかりと神様と共に歩んでいきましょう。
神様からの与えられた祝福の意味を知ることでより祝福された生き方をおくれる。
49:13 ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。
49:14 イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。
49:15 彼は定住の地を見て良しとし、/その国を見て楽しとした。彼はその肩を下げてにない、/奴隷となって追い使われる。
49:16 ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。
49:17 ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。
49:18 主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。
続いてヤコブは、ゼブルン、イッサカル、ダンに祝福の言葉を授けます。
ゼブルンは、海と関連する人生を生きるようになります。多くは語られていませんが、将来、ゼブルンの子孫が約束の地で受け継ぐ嗣業は、海辺にあり貿易によって繁栄するという約束が与えられています。牧畜をしてきたイスラエルにとって、海は不慣れな世界です。しかし、慣れない人生に打ち勝てば、地を手に入れるようになります。
イッサカルは農業に適した良い地を手にしますが、圧政下で暮らすようになります。物質的な欲のゆえに、やがてカナン人の奴隷になるということでしょうか。「たくましいろば」というのは、力強く、タフな者であるということ。しかし、「羊のおりの間に身を伏せる」とは、負うべき荷物を負わないで、身を伏せて怠けてしまうということであります。つまり、神様によって働きの賜物が与えられているのに、感謝して働くよりも怠けてしまう者であるがゆえに、強制的に働かされることになる。それが「奴隷となって追い使われる」ということでありましょう。
ダン(さばき)はその名のとおりに、自分の民をさばく部族となります。蛇は小さな生き物です。そのようにダンの子孫も、小さな部族でありました。しかし、蛇は奇襲を持って自分より大きな馬を倒すことがある。そのように、ダンの子孫も小さくても、他のイスラエルの部族と同じような力を持つことになるだろうという意味でしょうか。
それぞれの状況と立場にふさわしく必要な祝福が与えられます。与えられた祝福は何であろうか?なぜ自分にはこのような祝福が神様から与えられたのであろうか?与えられた祝福をとおして、私たちはさらに祝福をうける道を見出すことができます。
己の状況の不幸を嘆くよりも神様の祝福がどこにあるのかを見ていこう。
49:19 ガドには略奪者が迫る。しかし彼はかえって敵のかかとに迫るであろう。
49:20 アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。
49:21 ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。
それぞれ短い祝福の言葉ですが、ガドは苦難に遭うけれども、最後には勝利するということが言われています。アシェルには、農業的な意味での繁栄が約束されており、それをもって王の食卓に美味を提供すると言われています。ナフタリは、「解き放たれた雌じか」に喩えられています。野山を駆け回る自由さ、奔放さ、それに加えて「美しい子じかを産む」とありますように子孫の繁栄が、ナフタリ一族に与えられた祝福であるというのです。
ガドは苦難に打ち勝つ力、アシェルは食卓の豊かさ、ナフタリは自由奔放な精神、それぞれに素晴らしい約束が与えられていますが、何もかも持っているわけではないということは心に留めておく必要があります。
同じ場所にいても全く別の人生を生きることがあります。ダンとガドの立場では、アシェルやナフタリがうらやましかったでしょう。しかし、ダンとガドにはまた別の使命があり、祝福があります。全く違う人生ですが、すべては互いに必要なイスラエルの一員です。教会も同じです。全く違う人生ですが、私たちも神の家族としてお互いに必要な一員であることを忘れてはなりません。
また、それぞれ与えられた祝福、賜物が違うことをよく知っておかないと互いに批難し、裁きあうことになり、せっかくの祝福を台無しにしてしまいます。主から祝福された兄弟姉妹を自分と比較し羨ましがってはいけません。妬みになっていきます。
どんな祝福も神様から来るのでありますが、形は皆違い、それぞれにふさわしい形の祝福があたえられるのです。今年一年お一人ひとりがそれぞれ神様の祝福をもって歩むことを祈ります。