主日礼拝メッセージ 6月2日(日) 創世記23章 サラの死
2013-06-04
23:1 サラの一生は百二十七年であった。これがサラの生きながらえた年である。
23:2 サラはカナンの地のキリアテ・アルバすなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは中にはいってサラのために悲しみ泣いた。
23:3 アブラハムは死人のそばから立って、ヘテの人々に言った、
23:4 「わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を出して葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください」。
現代に生きる私たちは死というものについて、現実に考えているでしょうか。私が子どものとき、まわりの大人たちは人の生きる寿命について厳粛なこととして死を受けとめていたように思います。死をどのように受け入れていくのか誰もが考えなければいけない課題です。ですから人は宗教に救いを求めてきたように思うのです。
ですが、その厳粛さが失われているように思えます。これは現代における危機ではないでしょうか?死を恐れない、直視しないということは生についても考えないことだからです。ですから生への尊厳がなくなり苛めや競争による弊害の社会になっていくのは当然のことなのかもしれません。
アブラハムはサラの死に際し、深く悲しみます。これはサラの死を悲しみをもって受けとめたということではないでしょうか。また、サラを葬る場所を約束の地ヘブロンに決めます。故郷には戻らず神様がアブラハムとサラに与えて下さると約束された地にサラもそして自分もやがては葬られることを受け入れるのです。死は人間が逆らうことのできないものです。しかしアブラハムは神様に希望を置きます。神様を信じる者は死さえも神様の御手に置くことで平安を得るのです。
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