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8月23日 主日礼拝メッセージ 「いのちの主が行われた回復の御業」 ルカ7章11~23節

2015-08-23

私たちの信じている主イエス様はどのようなお方でしょうか?それがはっきりと示されているのが本日お読みした聖書の箇所であります。私たちの望みは主イエス様にあるのです。ここにおられる皆さんは主イエス・キリストを体験しておられるでしょうか。今も生きて私たちと共におられ愛し導いてくださっていることに気づいておられるでしょうか?

もし、そうでないとしたらなぜでしょうか?それは私たちの心のなかに主イエス様などおられないという思いがあるからです。主イエス様を知ることがなければ私たちの信仰生活は何の喜びもないでしょう。なぜなら愛やゆるぎない喜びは主イエス様から来るものだからです。主イエス・キリストを知らない信仰生活ほど悲惨なものはありません。何に依り頼んでいるかわからないからです。結局その人は目に見える存在、近場のものにしか心の拠り所がなくなってしまうのです。牧師やあるいは教会の兄弟姉妹など「溺れる者は藁をも掴む」で掴んだものがまったく頼りにならなくても掴まざるお得ないのです。

しかし、私たちは真に掴むものを知っています。今日は皆さんには頼りにならないものでなく真に頼りになる主イエス・キリストを掴んで帰っていただきたいのです。

 

イエス・キリストを掴むらなら死に打ち勝つ絶対的な希望が与えられます。

7:11 そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。

7:12 町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。

 

ナインは、ガリラヤ地方の南部、ナザレの南東約6キロメートルのところに位置する町です。ルカ福音書では、主イエス様は4章14節からガリラヤでの活動を始め、9章51節でエルサレムに向かう旅を始めるまで、ずっとガリラヤ地方を中心に活動しています。  そこで主イエスは息子を失った一人の女性と出会います。息子は彼女の「一人息子」で、彼女は「やもめ」だったと紹介されています。「やもめ(寡婦)」は当時、「みなしご(孤児)」や「寄留者」と並んで社会的弱者の代表でした。ユダヤ社会は男性中心の社会で、女性や子どもは、夫であり父親である成人男性に守られていなければ生きていくのが困難でした。「やもめ」「みなしご」は自分を守ってくれる夫や父親を持たないので、社会の中で本当に弱い立場の人々だったのです。また、人は自分の生まれ育った国に生きていれば、周囲の人々の支えが得られますが、外国に住む人は周囲の支えが得られないので、「寄留者=寄留の他国人」も弱い立場の人の代表でした。  このように見てくると、このやもめにとって一人息子は唯一の希望だったと考えられるでしょう。彼女が頼るべき相手は息子しかいないのに、その息子が死んでしまい、彼女は絶望のどん底に突き落とされていたはずです。 なお「棺」とありますが、貧しいやもめの息子のことですから、立派な棺ではなく、亡くなった人を運ぶ担架のようなものを指しているとも考えられます。

人々は女性につきそいますが何も言葉をかける術がありません。注解書では「やもめの深い悲しみに対して、町の人々は言葉を失ったのである。やもめ親子に注ぐ愛が真実であったからこそ、言葉を失っている。人間の愛の真実が届かない領域が明らかにされている。」

人間がどんなに踏ん張っても知恵を使っても解決できない事柄がたくさんあります。今日読んだ聖書であれば一人息子を失った彼女なのです。町の人たちは自分たちのできる範囲では彼女を支えることはできるかもしれない。けれども真には支えることはできないことを知っていたらからこそ言葉を失っていたのだと思います。

私も今、小松ヶ丘に行って集会のお手伝いをしています。でも月一回のお手伝いしかできません。もっと支えていくことができたらと思うのですが限界があります。それは教会の中でも同じことだと思います。兄弟姉妹が病んでいる何とか支えになりたいと思いながらもできないもどかしさを覚えます。

万策尽きて「祈ることしかできません」などと「まあ気休めぐらいになるだろう」と思っているなら、それだからあなたは何も掴むことができないのだと神様は言われるのです。私たちの最後の希望が主イエス様にあるのです。

7:13 主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。

7:14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。

7:15 すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。

 

13−14節「主はこの母親を見て、深い同情 憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。そして、近寄って棺に手を触れられると、…」。下線を引いた3つの言葉、「見る」「憐れに思う」「近づく」は、ルカ福音書ではセットのように他の箇所でも見られます。  ルカ10章の「善いサマリア人」のたとえにはこうありました。「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て 気の毒に 憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(33−34節)。  ルカ15章の「放蕩息子」のたとえの中にはこうあります。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。 「近寄る」「近づく」と「走り寄る」は言葉が違いますが、内容的にはほぼ同じです。

 

ここで「憐れに思う」と訳されている言葉は、ギリシア語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という動詞です。この言葉は「スプランクナ=内蔵、はらわた」という名詞に動詞の語尾をつけたもので、目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたが揺さぶられる、ということを表す言葉です。ある人はこれを「はらわたする」と訳しました。普通の日本語では「胸を痛める」と訳すのがよいでしょうか。胸よりも内蔵のイメージですから、「肝苦りさ(チムグリサ)」という沖縄の言葉が一番近いかもしれません。目の前の人の痛みを自分の体で感じてしまう、そのような深い共感を表す言葉なのです。  見て、はらわたするので、放っておけず、近づいていき、自分にできる精一杯のことをする。ルカ福音書は、愛するとはこういうことだと言おうとしているようです。その愛は何よりもまず、放蕩息子のたとえに示された父である神の愛であり、今日のナインの物語に示された主イエス様の愛であり、そして、善いサマリア人のたとえで示されているような、わたしたち一人一人に求められている愛なのです。

 

7:16 人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。

7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった。

今日の出来事は、列王記上17章にある預言者エリヤの物語とよく似ています。紀元前9世紀、エリヤはシドンのサレプタという町に住むやもめの死んだ息子をよみがえらせました。イエスのなさったことを見て、人々が「大預言者がわたしたちの間に現れた」(16節)というのはこの故事を思い出したためでしょう。「神はその民を顧みてくださった」という箇所で使われている動詞は「心にかける」とか「訪れる」とも訳される言葉です。ルカ1章68節以降のザカリヤの歌では「主はその民を顧みて解放し」と訳されています。なお、この前にある「恐れ」はただの恐怖ではなく、神の威光に触れた人間の自然な感情を表す言葉です。だから「賛美」につながっていくのです。

この出来事をただ人間の事柄だけに限定しまうなら主イエス様が見えなくなってしまうでしょう。死から生き返ったということを言っているのではないのです。主の顧みがないゆえに人は死ぬ。しかし、主の顧みゆえに私たちは主にあって生かされるのだとルカは語るのです。私たちもまた主の顧みを受けるときに死から命へと生かされる者になるのです。

 

主イエス様を掴む者は罪に打ち勝つ絶対的な恵みをあたえられるのです。

7:18 ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、

7:19 主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。

7:20 そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。

7:21 そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、

7:22 答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。

7:23 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。

 

この出来事の後、「来るべき方はあなたですか」という洗礼者ヨハネの問いを伝えに来たヨハネの弟子たちに対して主イエス様は語ります。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(ルカ7章22節)。

 

この出来事は、「貧しい人は福音を聞かされている」(22節)、主イエス様の愛に触れた人が絶望と死の暗闇から立ち上がるという、来るべきメシアの時代の始まりを示しています。わたしたちも今日、イエスによって始まったこの新しい時代を生きるよう招かれているのです。

 

私たちが真に主イエス・キリストを掴むときに死と罪に打ち勝つ力が与えられるのです。

 

お祈りいたします。

 


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