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9月13日 主日礼拝メッセージ 「みことばを聞く正しく良い心」 聖書:ルカによる福音書8章1~15節

2015-09-14

イエス様は神の国のことを弟子たち、群衆に向かって話すときによく譬をつかって話しました。今日、読んだ8章もそうであってイエス様は神の国は種まきが種をまきに出て行くようなものであるというのです。種蒔きは種をいろいろなところに蒔きました。ある種は道ばた、またある種は岩の上、またある種はいばらの間に落ちました。

まかれた種は空の鳥に食べられてしまったり、踏みつけられ、あるいは根をのばすことができず枯れてしまう。いばらの間に落ちた種はせっかく芽がでたのにいばらにふさがれてしまい成長することができませんでした。しかし、種蒔きはさらに種をまき続けるのです。

すると、ある種は良い地にまかれて、はえ育ち100倍の実を結ぶのであります。イエス様は良い地に落ちたのは「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」(ルカ8:15)と言われました。イエス様は神の国を体験するためには、作物が育って実を結ぶために良い土壌と手間ひまが必要なように「正しい良い心」と「忍耐」が必要であると言われます。楽して美味しい実を得ることはできないようです。

種とは神様の言葉である御言葉のことです。私たちが聖書の言葉である神様の言葉を正しい良い心でしっかりと守り、忍耐を持って聞き従うときに必ず豊かな実を結ぶとイエス様は約束してくださいます。

 

御言葉のなかにいのちがあります。

イエス様が譬で神の国を語られたのは実際に神の国の恵みを体験させるためです。神の国は頭で学ぶのでなく体験するものです。神様の恵みは頭で知るのでなく体験しなければなりません。私たちは神様の恵みを体験するどころか頭で理解することすらできていないことがあります。ですからそのような人は神様を信じているといいながら神様の恵みを体験できないのでいつも渇いた信仰、自分で頑張る信仰、神様がいるような、いないような確信のない信仰生活になってしまうのです。どうしてそうなってしまうのでしょうか?神様の御言葉を受け入れないからです。

8:5 「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。」

この土とはどのような人でしょうか。イエス様はこのような人だと言います。

8:11 この譬はこういう意味である。種は神の言である。

8:12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。

神様の言葉である種がせっかくまかれても、悪魔がきてすぐ神様の御言を心から奪い取ってしまうのです。以前は私たちの心も道ばたの土のように人の足に踏みつけられて固くなって神様の言葉を受け入れることができなかったかもしれません。けれども神様の恵みによって耕されて良い土になり神様の言葉を受け入れることができるようになったのです。だからといってそのままにしておくと、また固くなって神様の言葉がまかれても悪魔によって私たちの心から奪い取られてしまいます。私たちの心が固くならないように神様によって耕していただきましょう。

 

耕すこと

では、耕すとは?どのようにして私たちの心を神様に耕していただくのでしょうか。毎日、御言葉を聞くことです。

一ペテ 2:2には 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。

ペテロは神様の言葉を生まれたばかりの赤ちゃんがお母さんの乳を慕い求めるように、神様の言葉である聖書の言葉を慕い求めなさいと言っているのです。クリスチャンにとって聖書は健全に育つために毎日慕い求めなければいけないものです。昨日読んだから今日読まなくてもいいものではありません。また朝と昼食べなかったから夜3食まとめて食べようというものでもありません。無理して食べたら体を壊すように私たちの心も壊してしまいます。毎日、三食規則正しく食べることが必要なように毎日、聖書を慕い求め読み続けていくことが大切です。

 

御言葉を聞くことと同じように必要なことは神様に祈ることです。祈りはクリスチャンにとって霊的な呼吸です。アウグスティヌスは「祈りは魂の呼吸である」という言葉を残しています。

聖書にも 一テサ 5:17 絶えず祈りなさい。

と祈りはクリスチャンとして生きていくために必要不可欠なものであるのです。この二つを疎かにするなら私たちは神様の恵みから落ちてしまうのです。常に御言葉と祈りを慕い求めていきましょう。

信仰の実を結ぶには忍耐が必要だとイエス様は言われます。

8:13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。

8:14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。

 

イエス様は、私たちは神の国の祝福を体験するためには尚多くの忍耐を必要とすると言われます。言い換えるなら忍耐をとおして私たちは100倍もの豊かな実を結ぶのだというのです。豊かな実を結びたいなら忍耐が必要だということです。

なぜ、忍耐が必要なのでしょうか?できれば私たちは忍耐を避けて楽な方法で成功したいと思うのです。実は忍耐こそが成功への信仰でいうなら祝福へのいちばんの近道なのです。今やっているドラマで「表参道高校合唱部」というドラマがあります。高校生たちが合唱に青春をかけていくドラマのようですが自分も音楽をやっていたので懐かしい思いにかられました。私は中学、高校と音楽をやっていました。中学のときには全国大会を目指して先輩たちが築いてきた実績に続けと日々、練習をかさねていました。しかし、私はかっこつけなのか努力もしないでできたかのように演奏していました。結局は本番のときにぼろが出てしまったのです。そのかっこつけは神学生時代にもあらわれぼろが出てしまったのです。バプテスト史の授業で私が発表をしたときろくに読んで調べもしないのにわかったかのような顔をして発表をしたことに先生は大変私を叱られました。私の甘さが抜けていなかったのです。

イエス様は逆境や試練をとおして私たちに忍耐の歩みをするようにします。それは私たちのなかにある不純なものを表しにして正しくし真の成功、実を結ばせるためなのです。根が無ければさらに深く耕して根を深く伸ばすことができるようにし、いばらがふさぐなら余計な雑草を取り除いてくださいます。皆さんがイエス様の与える訓練から逃げ続けるなら祝福も逃げ続けるでしょう。そして試練がこれでもか、これでもかのごとく皆さんを襲うでしょう。なぜならこの世界は罪によって呪われた世界であり、絶えず私たちを苦しめるのです。「神様、なぜ?」と思うでしょうが、私たちが試練に遭うのは神様のせいでなくこの世界が罪によって呪われた世界だからです。ですからイエス様は忍耐をとおして私たちが罪に打ち勝つことができるようにしてくださっていることを知らなければなりません。

 

最後に

イエス様は良い地に落ちた種とは「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」

 イエス様は御言葉を正しい良い心でしっかりと耐え忍ぶなら豊かな実を結ぶといわれました。神の国において実を結ぶことは人間の能力や力でないことを教えてくださいました。御言葉が私たちに実を結ばせてくださるのです。今日読んだ8章の冒頭には12人の弟子たちのほかに女性たちがイエス様に従っていったことが書かれています。彼女たちはイエス様が十字架にかけられたとき最後までイエス様につき従いました。弟子たちはイエス様を見捨てました。彼女たちは最後までイエス様に従ったのです。それゆえにイエス様の復活の証人となることができました。これはほんの一例にすぎません。私たちも最後まで御言葉であるイエス・キリストに信頼して従うときに豊かな実を結ぶのです。豊かな実を結ぶことを願ってお祈りいたしましょう

 

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