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8月16日 主日礼拝メッセージ「よい人生 ほめられる信仰」 ルカ7章1~10節

2015-08-17

7:9 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。

 

 

 

恐山菩提寺の院代(住職代理)であられる南直哉(じきさい)さん禅僧さんが「恐山」死者のいる場所という本を書いています。この方はとてもユニークな方でこの「恐山」という本のなかでも仏教の核心について書いておられます。たとえば仏教では死後の世界はあるのかないのか「答えない」のがブッダの時代からの公式見解だそうです。「無記」といいます。仏教の本質はこの世の無常なときをどう生きればよいのか?必ずしも簡単とは言えない人生を、最後まで勇気を持って生き切るにはどうするか?それこそが仏教の一番大事なテーマであって、死んだ後のことは、死ねばわかるだろう、それぐらいに考えればいい。

「恐山あれこれ日記」というなかでも「輪廻転生」も当時民衆に善悪を教育するためのもの、人生に意味を持たせるものだったとして当時の支配階級と結びついたものであったとか?世のお坊さんが聞いたら「余計なことを言うな」と随分と過激なことをおっしゃるなと思いました。

南さんは「魂」についてはないと困る。それは人が生きる意味と価値のことだと。ないと困るけどそこら辺に転がっているわけでもない。「これが俺の魂だと」自分で勝手にでっちあげるわけにもいない。では、どこにあるのか。魂というものは、一にかかって人との縁で育てるものである。他者との関係の中で育むものでしかない。と書いてありました。またその魂を最初に肯定してくれる存在が母親なのだと。そういう意味において聖書はすごいことを語っているなと思います。

エペソ人への手紙では

1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、

1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

 

すべてをつくられた神さまがあなたは天地の造られる前から、キリストにあって愛のうちに定められ選ばれた者だと宣言してくださっているのです。私たちは一から縁を結んで育てていかなくても、仮に縁を結び人がひとりもいなかったとしてもあなたの魂を愛し、育んでおられる方がいることを忘れてはなりません。今日、読んだ聖書の中にも神さまに愛され育まれた人がいます。百卒長です。この人は異邦人でした。異邦人は当時イスラエルの人々が、‟奴らは真の神を信じていない”と言って軽蔑されていたのです。しかし主イエス様に「これほどの信仰をもった人は、イスラエルの中でも見たことがない」と称賛されました。

 

主イエス様がガリラヤ湖畔の町、カペナウムにおいでになった時のことです。この町に住む百卒長(百人隊長)の部下が、「病気になって死にかかって」(2節)いました。

当時、地中海の周りの広大な地域は、ローマ帝国によって支配されていました。イスラエルもそうでした。ローマ帝国は各地に、治安維持と民衆の反乱を抑(おさ)えるために、駐屯軍を置きました。カペナウムにも駐屯軍が置かれたのでしょう。その駐屯軍において、百人の部下を指揮するのが百人隊長でした。

死にかかっていたのは、彼が頼みにしている部下でした。それだけに、何とか助けたいと思いながら、しかし悪化していく部下の病状に気を揉んでいたことでしょう。

そんなとき、主イエス様がカぺナウムに来られたという情報を、百人隊長は聞きました。以前から、主イエス様が病人を癒(いや)しているという噂を、彼は耳にしていたことでしょう。主イエス様なら、部下の病気を癒すことがおできになる。そう思った百人隊長は、「この百卒長はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした。」(3節)頼みました。

百人隊長に遣わされて、主イエス様のもとにやって来たユダヤ人(イスラエル)の長老たちは、熱心に願ったと言います。

彼らはイエスのところにきて、熱心に願って言った、「あの人はそうしていただくねうちがございます。 わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」。

(4~5節)。

異邦人が、ユダヤ人からこれほど認められ、称賛されるのはめずらしいことです。先ほどもお話ししましたが、ユダヤ人は、自分たち以外の諸民族を“異邦人”と呼び、まことの神を信じない人々として軽蔑し、忌み嫌っていました。汚(けが)れた人間と見なして、付き合うのを避けていました。そのようなユダヤ人が、これほどほめるのですから、この百人隊長の人となりが推察できます。おそらく彼は、ユダヤ人が信じる神を信じていたでしょう。ユダヤ人が集会を共にするために集まる会堂(シナゴーグ)には、異邦人であっても神を信じる者は、その集まりに加わることができた、と言います。この百人隊長も、そのような異邦人の一人だったに違いありません。しかも、彼は、ユダヤ人のために自腹を切って会堂を建ててくれた、と言います。百人隊長の給料は、それほど高額ではなかったでしょうから、自ら会堂を建てるというのは半端な信仰ではありません。だからこそ、ユダヤ人の長老たちも、これほどの信仰と認めて、彼のために使いをし、尽力したのです。

けれども、主イエス様が「これほどの信仰」と認めたのは、そのような信仰ではありません。異邦人なのにまことの神を信じたから、自腹を切って会堂を建てたから、「これほどの信仰」とほめたわけではないのです。では、主イエスが「これほどの信仰」と称賛されたのは、一体どんな信仰だったのでしょうか?

 

今日の聖書箇所を読むと、百人隊長が途中で、考え直したことが分かります。最初は、主イエス様に来てもらおうと考えて、長老たちを使いにやったのです。ところが、主イエス様がおいでになる途中で、来ていただくには及ばない、と考えが変わったのです。そこで、第二の使いを、今度は友だちを使いにやって言わせました。

「そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。

それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。

わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。(6~8節)。

この言葉の後半に、百人隊長が、主イエス様に来ていただくには及ばないと、考えが変わった理由が示されています。

彼は、百人の部下に命令し、指揮する隊長という立場に立っています。彼が命じれば、部下たちはその言葉に従います。それは、百人隊長が軍隊の権威の下に置かれているからです。隊長の言葉には権威があるのです。だから、部下は従います。そのとおりにします。

それと同じ権威が、いや、それ以上の、比較にならない、偉大な権威が、主イエス様の言葉にはあると、百人隊長は気づいたのです。自分がローマ軍の権威の下に置かれているように、主イエス様は“神の権威”の下に置かれている。主イエス様が、神の権威の下に命じれば、その言葉は実行される。主イエス様にわざわざおいでいただかなくても、ひと言“病気よ、治れ”と命じてくだされば、その言葉は実現する。病気は癒される。百人隊長は、そのように信じたのです。

つまり、百人隊長は最初、主イエス様に来てもらうことが大事だと考えたのです。主イエス様が目の前にいないと、癒しの恵みは実現しないと考えたのです。それが、彼の最初の信仰です。

けれども、途中でその信仰が変わりました。主イエス様に来ていただかなくていい。目の前にいなくていい。主イエス様の御(み)言葉があれば、それでいい。主イエス様がお語りになる御言葉を信じよう。その御言葉は、神の力と愛に裏打ちされた権威によって、必ず実現する。そういう信仰に変わりました。

そして、この信仰こそ、主イエス様が「これほどの信仰を見たことがない」と言って、ほめられた信仰なのです。目に見える立派な会堂を建てるような信仰ではなく、目に見える主イエス様が目の前にいることを願う信仰でもなく、主イエス様は目に見えなくても、ここにいなくても、その御言葉を信じる信仰です。徳善義和先生は主イエス様のこの言葉をこう訳しています。

「私は言う。イスラエルの中でさえ、私はこれほどの(神の)真実(の働き)、(それに対する信頼)を見たことがない」言い換えれば信仰とは神さまの真実の働きに対する信頼なのです。

 

先ほど、南直哉(じきさい)さんが書かれた恐山の話をしましたが、人は誰しも自分という存在を受け止めてくれる何かを捜し求めています。死んだら人はどこに行くのだろうか?そう思うのも死の先にあるものが見えない不安からくるものではないでしょうか?そのような不安に誰が答えてくれるのでしょうか?その不安を解消するために人々は必死に目に見えるものに安心を求めるのではないでしょうか。

 

私たちは、目に見えるものを求めがちです。財産、成功、地位、名誉、健康‥‥‥努力もその結果を、友情もそのしるしを、愛もその形を求めがちです。信仰も、これだけ献金をして会堂を建てたとか、これだけ奉仕をしている、といったことを重要視してしまうかも知れません。そして、神さまもそうではないでしょうか。目に見える、形あるものを求めるのです。神の存在を証明せよ。そうでなければ信じない、というのです。

けれども、大切なものは目には見えません。神様の存在、主イエス様の存在が目に見えることが重要ではないのです。目には見えない神様を信じる。その力と愛を信じる。その力と愛に裏打ちされた権威ある御言葉を信じる。神様の御言葉はきっと実現すると信じて生きる。それが、主イエス様にほめられ、喜ばれる信仰です。

 

「これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」(9節)

私たちは皆、この御言葉の前に立たされ、この御言葉に問われることでしょう。“あなたには信仰があるか。あなたには、これほどの信仰があるか”と。言い換えればあなたは神さまの真実を信頼しますか?

私たちには、この百人隊長のような信仰があるでしょうか。御言葉を信じる信仰があるでしょうか。御言葉はそのとおりになると、神様の偉大な権威を信じているでしょうか。自分を省(かえり)みて、ああ、御言葉を信じる心が足りないなあ、神様の偉大な権威を信じる信仰が薄いなあ、と感じざるを得ません。

でも、このままで終わりではありません。百人隊長の信仰が変わったように、私たちの信仰も変えられます。それは神さまの真実が私の魂に働いておられるからです。御言葉を聴き続け、それを行おうと祈り、従い続けることで成長していきます。そういう信仰の旅を、私たちは歩いているのです。

 

お祈りします。

 

 

 

 

 

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