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1月8日 初週祈祷会メッセージ マタイ7章1~5節「余計なものを取り除け」

2015-01-09

神様は祈る私たちを真剣に見ておられます。上から高みの見物というように見ているのではありません。私たちの祈りには最期まで責任を持って見られる方です。

私たちは祈る時に神様を見ているだろうか?礼拝の時に神様を見ているだろうか?メッセージをして感じる時があります。神様を見て礼拝をしている教会なんだろうか?もしかすれば牧師や語るメッセンジャー、あるいは教会の人たちを見てどこ見ているのかなと思う時があります。私自身見えていると思い込んでいたところに怖さがあった。ことを告白します。

私たちが神様をきちんと見ることができないならば、いったい私は何に目をふさがれているのでしょうか?恐れや虚栄は私たちの目をふさぎます。

 

イエス様は山上の垂訓で私たちに余計なものを取り除かれるように語られました。

1節 人をさばくな。自分がさばかれないためである。2節 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。

 

「人を裁くな。」とあります。「裁く」とは「裁判をする」ということです。言葉には「見分ける、判断をする」という意味があります。

旧約時代においての「裁く」とは曲がったものをまっすぐにするというヘブライ語の意味から来ています。苦しめられている人たちを正義に神が裁かれて立ち上がらせる。そして二度と悪に苦しめられることのない地に住まわせる。という意味です。

しかし、ここでの「裁く」という言葉は、ギリシャ語には「優っているとする」という意味があります。つまり、自分のほうが誰かよりも優れているとするのです。分かりやすく言えば、「私の方が、あの人よりも優れている」、あるいは「俺はあいつよりはマシだ」ということです。そのように決めつける。それがここでイエスさまがおっしゃっている、「裁く」という意味であると言えます。

 

「人を裁くな」と言うことの理由は、「神様が私たちをお裁きになる」からということです。そのことは、自分が人を裁く、それと同じように神様が自分をお裁きになる。そのために人を裁くな、と主イエスは言っておられるのでしょうか。イエス様は、私たちにそのような神様との取り引きを教えるような方ではありません。イエス様がこのことによって私たちに伝えていることは、神様が私たちをお裁きになる、ということです。そして、私たちが人ではなく、神様の方を見るときに「自分の目の中の丸太」に気づかされていくのです。

 

3節 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。

4節 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 5節 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

 

イエス様は、兄弟の目にはちりがあり、あなたの目には梁がある、と言っておられます。ちりと梁とでは、全く大きさが違います。私たちが分かるのは、人と自分とを見比べて、自分の目にもちりがある、ということです。ちりの量が少し多かったり少なかったりするのが、人と自分との関係です。しかしイエス様は、あなたの目には梁があると言われます。そのことは人との関係において、人と比べてのことではありません。人の罪や過ちと比べて、あなたの罪や過ちは何十倍何百倍も大きい、ということではありません。人との比較ではなく、神様があなたをお裁きになる、ということです。イエス様がここで言われているのは、神様があなたをお裁きになるその時、あなたの目には梁があることが明らかになるのだと言うことです。

 

ちりと梁は、罪や過ちの大きさや量を比較しての言葉ではありません。ここで比べられていることは、人間の裁きと神様の裁きなのです。人間が人間を裁く時には、お互いに相手の目にあるちりを見ているのです。しかし神様の前に立ち、神様がお裁きになる時、私たちは、目に梁がある者であることを明らかにされるということです。私たちの目にちりがあれば、少し見えにくいことはあるかもしれませんが、全く見えないということはないでしょう。しかし目に梁があったら、それはもう全く見ることはできません。私たちは神様との関係においては、神様の裁きの前では、見るべきものを何一つ見ることができない、全く目を塞がれた者なのです。神様との関係において、私たちの目を塞いでいる梁とは私たちの罪です。

 

この私たちの罪によって、私たちは神様から離れ、神様を忘れ、自分の思いによって生きるのです。その罪の丸太が私たちの目を塞いでいるのです。私たちが神様から離れ、神様を忘れるところから人を裁くことも生じます。裁くことは本来、主人である神様のみがなさることなのです。私たちが人を裁こうとするところには、神様に代わって自分が裁く者となろうとする私たちの罪が表れているのです。私たちに人を裁く資格がないのは、自分も似たようなものだからではありません。人を裁くことができるのは神様お一人だからです。人間が自分の目にある丸太によって目が塞がれ、神様が分からなくなってしまい、自分が裁き手になろうとしてしまう。そのことが人間の罪なのです。

 

他者を裁くということは自分が神様の御前にどういう存在であるかを忘れています。私たちは誰ひとりとして神様の御前に裁かれない者はいないのです。しかし、神様の裁きは私たちを神様の御心にかなう者として立たせて下さる裁きであることを知らなければなりません。神様の裁きこそ恵みであります。

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